沖縄10・10大空襲が決定づけた地上戦の方針
米軍の沖縄来襲を見越し、軍や民間人が基地建設や陣地壕建設に励むさ中の1944年10月10日、沖縄は大規模な米艦載機攻撃を受けた。那覇市一円は大炎上し、近隣の港湾やふ頭、飛行場なども爆撃を受け、死者225人、負傷者358人、全市域の90パーセント近くが焼失した。
那覇市が大被害を受けたことにより、この日の米軍攻撃を「那覇10・10大空襲」と呼ぶものもいる。この後、第32軍は、今までの飛行場建設を停止し、敵を水際で叩く計画に変更、県民を動員した陸上陣地の構築に励んだ。
大空襲から約1カ月が経った11月3日、突然第32軍司令部に大本営陸軍部から、「第32軍は1個師団を台湾に転出されたい」との命令を受けた。沖縄と上級司令部の台湾軍との厳しいやり取りがあったが、結局大本営命令で11月17日、第9師団の転出が決まった。
これを契機に、新たな沖縄防衛構想が一挙に走り出した。それは、一旦敵を沖縄に上陸させ、一日でも長く「地上戦闘」を続ける戦法に変更することであった。これにより、本土での日米決戦の時間を稼ぐことが可能となり、大本営も賛成した戦術である。
長参謀長は、この戦いを「吸血ポンプ作戦」と命名し、努めて多く敵の損害を強要するのだと兵士らを激励した。
1944年11月26日、第32軍司令部は地上戦を想定し各部隊の陣地の転換命令を出した。これに伴い、各部隊はそれまでの陣地を放棄することになった。
住民を多数動員して昼夜にわたった陣地構築も、ここで終わりとなり、各部隊は夜間に人目につかない「秘匿演習」と銘打った陣地移動を行なった。
度重なる陣地移動に不満を言うものも多く、これとともに日本軍の士気もみるみるうちに下がっていった。沖縄戦が事実上終了した1945年6月23日、沖縄南部で米軍に投降した一人の日本兵は、「米軍の沖縄上陸前から、日本軍の大多数は、米軍に打ち負かされるのは間違いなく、このため士気も低かった(*4)」と述べている。
この証言を裏付けるかのように、移動先の陣地において、「(将校らは)戦況が不利であるのを知っており、女たちと遊び呆け、酒を飲んで騒いでいた。(中略)将校たちがこうした行動を見せたのは、戦闘精神を喪失し気落ちした結果からだ(*5)」と第62師団情報将校は述べている。
ただし地元新聞の「沖縄新報」だけは、「捨て身の必殺精神」「死中に活あり」「軍民一如一人一殺」などと書き立て、戦意を高揚したが、大局的には当初から日本軍の勝利はほぼ絶望的な作戦計画であった。
モノクロ写真・図/書籍『首里城と沖縄戦』より
写真/shutterstock
*1 八原博通『沖縄決戦―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年、32頁。
*2 第10師団「第九師団戦史」
(https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/pdf/b0305362/b0305362.pdf)212頁。
*3 同上、213頁。
*4 保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言―針穴から戦場を穿つ』上、紫峰出版、2015年、195頁。
*5 保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言―針穴から戦場を穿つ』下、紫峰出版、2015年、262頁。