首里城攻撃の中止要請

1945年3月24日。

「偵察機による確認では、それまでに(首里一帯の)建物の損傷は確認できなかった。3回目の一斉砲撃後、射撃は偵察機のアル・オリバー中佐により、古ぼけた建物の要塞(首里城)と思われる場所に移った。

偵察機のオリバー中佐は、『火砲にさらされているあの建物群を残すよう頼む。病院として使われているか、もしくはある種の宗教的な建物としてあるのかはっきりしない。

450メートル以下の高度で、建物に最初に一斉射撃を行なったとき、数人の女性と子どもたちがその場所から走って逃げ出すのがはっきり見えた』と回想している。そこは、沖縄の地上部隊に対する主要司令部のある首里城であることが判明した(*1)」

戦争当初は攻撃目標でなかった首里城は、なぜ狙われたのか…首里城が沖縄戦で焼け落ちるまで「海兵隊による文化財の略奪を防ぐねらいも…」_1
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第二次世界大戦下、米軍では航空部隊に対し、歴史的建造物や病院、傷病者用の病棟は、攻撃目標から外すよう指示を出していた。

オリバー中佐は、「古ぼけた建物の要塞」としてある首里城を、「病院、もしくは宗教的建物」とみなし、砲撃を控えるよう要請し、結果的に首里城は、米軍の第一次総攻撃が行なわれる4月18日まで、無傷のまま残ることになった。

さて、オリバー中佐の報告の真偽を確かめるため、その日のうちに戦艦ノースカロライナは調査を行ない、そこは主要司令部が置かれた首里城であると判定した。また、同日の「アクション・レポート」には、観測機が撮影した首里城の航空写真も添付されている。

一方、偵察機が飛行中、数人の女性と子どもたちが走って逃げ出すのが見えたというが、このとき首里城内には複数の自然洞窟や、市民100人以上が避難できる「竹林壕」と呼ばれる大型の壕もあった。

さらに壕に入り切れない民間人は、城壁の隙間に逃げ込んだりしていた。オリバー中佐が目視した民間人は、学校施設にでも隠れていたのだろうが、子どもたちの行動が目に留まり、一時的にせよ首里城への攻撃を先延ばしするのに一役買ったようだ。

戦艦ノースカロライナに届けられた首里城周囲の航空写真。出典/Battleship NC, “Battle of Okinawa”, Action Report,1945年3月24日
戦艦ノースカロライナに届けられた首里城周囲の航空写真。出典/Battleship NC, “Battle of Okinawa”, Action Report,1945年3月24日

一方、米第10軍情報部は、首里城一帯に重要軍事建造物があり、第32軍司令部が首里城にあることは沖縄戦の前から実は分かっていたという。沖縄戦が終了した8月に出された『インテリジェンス・モノグラフ(Intelligence Monograph)』(報告書)は、具体的にこう述べている。

「沖縄作戦開始前から、第32軍司令部は首里城か、もしくはその近辺に布陣しているのはわかっていた。この神々しい建築群は、小都市首里にわずかに占める南端台地に位置し、旧琉球国王の居城であった。(中略)作戦開始後の捕虜尋問と記録によれば、第32軍司令部は、首里城台地下を走る精巧な地下坑道に布陣していたことが明らかになった(*2)」

米第10軍が日本軍司令部の位置をつかんだのは、日本軍が発信した暗号電の解読を通してである。米軍が南西諸島の日本軍電文を傍受‐解読し始めたのは、1944年3月の第32軍創設にまでさかのぼる。

その後ハワイの情報部を中心に、第32軍関連暗号電を追い続け、ついには連合艦隊司令部が1945年3月25日に沖縄海軍根拠地隊に打電した「我が(海軍の)砲撃部隊は、敵が陸上陣地に到達するまで米舟艇を砲撃してはならず(*3)」との電文まで解読している。これは、米軍が沖縄に上陸しても反撃してはならないと指示した海軍最高レベルの暗号電であった。

もちろん米軍側は上陸時、日本軍の無抵抗方針が分かっていても、総勢18万人に及ぶ沖縄上陸作戦を用意周到に決行した。暗号解読の秘策は、それが解読されていることを絶対に敵に気づかせず優位に行動に移すことである。

米第10軍司令部は、沖縄作戦開始前から第32軍司令部位置や日本軍作戦を知悉していても、それを上陸部隊や航空部隊に通報することはなく、そのため米第58機動部隊や艦載機は、独自の判断で文化施設と目される首里城への艦砲射撃や機銃掃射を回避したのであろう。