第9師団の首里地区配備

1944年7月、日本軍の沖縄派遣と同時に、首里市一帯は、軍事要衝地帯に変わっていった。首里地区に最初に軍事施設を構築したのが、第9師団である。同師団は、7月に沖縄に上陸し、その年の12月末には台湾へと移動している。

同師団は、石川県金沢市の金沢城内に司令部庁舎を構える伝統的な陸軍部隊である。師団は、金沢市の中心部に練兵場や兵器庫などを配置し、同市は軍都として広く知られていた。

沖縄に到着した第9師団は、軍が駐屯すべき陣地や兵舎もなく、全くの無防備なことに驚いたという。

「これでよいのか、敵は既に目前に迫っているではないか、内地部隊はたるんでいるぞ(*2)」と満州から来た将校らは憤慨した。

そこで「師団は直ちに司令部を首里の師範学校におき、歩兵第7連隊を首里南方の南風原から大里地区に、歩兵第19連隊を東風平地区に、歩兵第35連隊を南部島尻地区に配置(*3)」し、それぞれ独立した陣地を構築することにした。

このとき、第9師団司令部は、首里城に近接する土地を首里市から入手し、独自の司令部壕を建設することを決めた。そのとき首里市といかなる軍用地折衝を行なったかは不明である。

首里城
首里城

この時期の沖縄の日本軍は、用地の提供についてなかば強制的に借り上げ、有無を言わさず承諾印を押させている。軍用地接収は軍事機密にも関わることなので、おそらく首里市独自の判断で、軍用地として無償貸与したものと考えられる。

ところで第9師団は、司令部と通信隊だけを首里に配備し、実動作戦部隊は、主に南部一帯に配置した。これは、敵の沖縄上陸予測地を南部地区とみなしたことに関係がある。

第32軍司令部は、この段階で海岸部にて敵を叩く「水際攻撃」も計画しており、読谷山村を中心とした中部地区の沿岸防衛には、第24師団を配備した。