8月15日の三文芝居

例年、この時期になると、日本人は「大日本帝国の最後の戦争」が侵略だったと反省し、その反省を理由にいま生きている誰かを責め立てる人々と、大日本帝国の最後の戦争がもたらした建設的な面にだけ目を向け、その栄光を理由にいま生きている誰かを責め立てる人々に二分される。

いや、二分することなど出来ない。人にはそれぞれ考え方に違いがあるのだから――この問題にかぎってはそうでもないだろう。ただし、「侵略と栄光」で区切る線引きは変更したほうがいい。

区切るなら「戦争に負けてよかったと考えている日本人」と「戦争に負けてよいはずがないと考えている日本人(この立場の前提は、負ける戦争は始めるべきではなかった、である)」だ。

「戦争に負けてよかった」と考える集団は、第一に「戦前の日本社会は暗黒で、まったく民主的社会ではなかった」という前提に立つ【1】。彼らはその暗黒社会が戦争に負けたことで、というより、負けたことによってのみ現在の民主化が達成されたと信じている。

マッカーサー像 写真/shutterstock
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他方、評者を含む「戦争に負けてよいはずがない」と考える集団は、第一に「戦前の日本は、現代に比較すれば不十分ではあるが、当時の国際社会の水準に照らせば民主的国家と誇るに足る程度の社会であった」という前提に立つ。

そして、たいていの者は、日独伊三国軍事同盟の締結をポイント・オブ・ノーリターンとして、当時の日本が勝てない戦争を始めたために、十全な民主国家を確立する時宜を逸したことを悔いている。

前者の日本人は「ほとんどがアメリカ人によって構成された占領軍」によって、「悪い日本人」が処罰・処刑されたことを喜ぶ。後者の日本人は「悪い日本人」であれ、「善き日本人」であれ、同胞が他国によって一方的に裁かれること、それ自体を是としない。