加藤和彦は、なぜみずから命を絶ってしまったのか
本人たちも人にあげるのが惜しくなるほどの名曲「あの素晴しい愛をもう一度」だが、この曲がきっかけで、加藤は長年契約していたレコード会社と袂をわかつことになる。
1978年のことだ。再び書籍『あの素晴しい日々 加藤和彦「加藤和彦」を語る』から引用しよう。
『ガーディニア』とは、作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦のコンビで制作した“ヨーロッパ三部作”と呼ばれる加藤のソロ連作の前哨戦にあたる作品で、1978年に発売されたアルバム。これを最後に加藤はザ・フォーク・クルセダーズ時代からの付き合いだったレコード会社、東芝EMIを離れ、次作からはワーナー・パイオニアに移籍する。
文中の“新田さん”とは、当時の東芝EMIで邦楽部のトップにいた音楽プロデューサー、新田和長氏のことである。
新田氏は加藤和彦のよき理解者だったし、二人の関係はその後に修復されているから、それはちょっとした言葉のあやだったのかもしれない。だが、「『あの素晴しい愛をもう一度』みたいなのがいちばんいいんだ」という何気ない言葉に、加藤はなぜそこまで激しく反発したのか。
その答えは、ファンならよく知るところかもしれないが、加藤和彦の音楽に対する姿勢そのものにある。
ザ・フォーク・クルセダーズのデビュー曲「帰って来たヨッパライ」が猛烈な売り上げを記録したことで、レコード会社は当然、第二弾も同じようなコミックソングを期待した。
だが加藤も北山もその意向に反し、セカンドシングルを朝鮮半島の悲哀をしっとりと歌い上げた、北朝鮮の既存曲「イムジン河」に決める。
結局、発売前に朝鮮総連からの抗議を受け「イムジン河」は発売中止となり、代わりに「イムジン河」のコードを逆から弾いて即興で作ったという「悲しくてやりきれない」(作詞・サトウハチロー、作曲・加藤和彦)をリリースすることになるのだが、いずれにせよ「帰って来たヨッパライ」とはまるで方向性の違う楽曲だ。
加藤和彦という人の最大のモットーは、「同じことは二度とやらない」。
映画の中でも、ザ・フォーク・クルセダーズ時代から、ビートルズのように一曲ごとに曲調を大きく変えることを意識していたということが語られている。
イギリスで起こっているグラムロックムーブメントに触発されたサディスティック・ミカ・バンドにしても、その後のソロ作品にしても、確かに加藤和彦が打ち出してくるものは、過去の栄光にすがった焼き直しは一つもなく、常にその時代の最先端をいくものだった。
もしかしたら、それが本当にできなくなった時点で、加藤は自分の存在価値を否定してしまったのかもしれない。
2009年に軽井沢のホテルで自殺した加藤和彦は、以下のような遺書を認めており、葬儀の際には参列者に公開された。
「今日は晴れて良い日だ。こんな日に消えられるなんて素敵ではないか。私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としてないし。私にも今は必要もない。創りたくもなくなってしまった。死にたいというより、むしろ生きていたくない。生きる場所がない、と言う思いが私に決断をさせた。どうか、お願いだから騒がないで頂きたいし、詮索もしないで欲しい。ただ消えたいだけなのだから…」
だが、世の中は今再び加藤和彦を求めている。
文/佐藤誠二朗
映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
TOHOシネマズ シャンテほか全国で、5月31日より順次公開。