メジャー化していくシティ・ポップ
私たちが一貫して支持してきたロック・バンドたち。有名どころでは、いつもお客さん4、5人の前で歌う忌野清志郎率いるRCサクセション。集客がゼロに近かった柳ジョージやカシオペア。
他にも愛奴に在籍していた浜田省吾、下北沢ロフトの店員バンドだったサザンオールスターズ、高崎の不良バンドだったBOØWYなど、彼らの活動初期はほとんどお客さんが入らず、ロフトでは長いことその状況に耐えてきたわけだ。
ライブハウスが連日ブッキングを組んで以降、ロックが世間に浸透するようになり、80年代半ばから90年代初めまではバブルやバンド・ブームもあって、大手レコード会社は新人バンドを食い尽くす青田買いに走り出す。私たちが支持するロックは、大手レコード会社や巨大プロダクションのライブハウス参入により瞬く間に商業化され、一部のロッカーたちは大金を手にすることにもなった。
YMOでブレイクする以前、まだ無名だった坂本龍一は、「どこぞの牛丼が美味いかどうかを話題にしていた奴らがいつの間にか六本木のステーキ屋の話をしている」と言っていたものだ。
70年代後半になると、それまでロフトを根城としていたシティ・ポップ系の大物ミュージシャンたちがレコード会社の援助金を得て、そのライブの活動拠点を大型の公会堂や大手資本が運営するライブハウスに移すことになる。彼らは集客が安定していたので、ロフトにとって大きな痛手だった。お客が数人の時代を耐え忍び、ブレイクした途端に踏み台にされるのがライブハウスの宿命なのだろうか。
中には「100人くらいまでの集客はライブハウスの任務だけど、それを1万人規模にできるのはわれわれレコード会社の責任だ」と言い切る関係者もいた。なんとも不遜なレコード会社の言い分だと思ったし、「結局、俺たちはレコード会社が儲かるために採算の合わないライブを頑張ってやってきただけなのか……」と唖然としたものだった。
こうした風潮が罷り通るようになり、それまで小さなライブハウスを支えてきたバンドやミュージシャンが営業的にライブハウスへ出演する理由もなくなったわけだ。残ったのはほとんどお客さんが入らないバンドばかりで、いくつもの空白日が出るようになった30日間のスケジュールを埋めるのに私たちは必死になった。
「ロフト育ちの坂本龍一や山下達郎、細野晴臣、大滝詠一、大貫妙子、桑名正博、ムーンライダーズも気づけば出演しなくなったな……」と私は大きく嘆いたものだった。