「音が痛くてつらい」
ユウ君は、盛岡市で生まれた。引っ込み思案で、公園に連れて行っても、他の子が遊んでいると「んー、やだ」と言って近づけないような、慎重な性格だったという。
母が「他の子と違うのでは」と感じ始めたのは幼少期だ。玄関のドアを開けるだけで目を覚まし、掃除機や車のクラクションの音にも敏感ですぐに泣いてしまっていた。日本三大花火の一つ、秋田県の「大曲(おおまがり)の花火」を見に行っても、「怖い、怖い」とずっと泣いていた。
だが成長するにつれ、泣いたりだだをこねたりすることは少なくなっていったという。大人びた性格になり、幼稚園でも友達のおもちゃを取ったり投げたりすることはなかった。𠮟ったこともほとんどない。
父の転勤で東京に引っ越し、小1から都内の公立小学校へ通った。毎日通学し、地域の少年野球チームにも入った。ボールを投げたり打ったりすることは人並みにでき、にこにこと楽しそうに練習していたという。2年生になると、試合にも出られるようになった。
小2の3学期が始まる日だったという。
始業式のその日もふだん通り学校へ行った。持って帰ってきたのは、その月の目標を書くカード。そこにユウ君は「自分がつらくならないようにすること」と書いていた。
驚いて母が聞くと、ユウ君は「音が痛くてつらい」と言った。教室にいると、同級生の声や物音の刺激が痛いのだという。「休みたい」と言った。これまであまり弱音を吐いたことはなかったので、疲れがたまっているだけだろうと母は思った。すぐに良くなるだろうと思っていたが、欠席が1週間、2週間と続いた。先生から「続くと長期化しますから」と言われたので、耳栓をさせ、静かな校長室や会議室で過ごすことになった。それでも良くならなかった。
勉強は、特別できたわけではないが、悪くもなかった。テストでは、問題文の読み間違いや図の見間違いでバツをつけられることが多かった。友達は多く、休み時間は外で遊ぶこともある普通の小学生だったのに、なぜだろう。母はスクールカウンセラーなどにも相談したが、ユウ君が、同級生たちがいる教室に戻ることはなかった。
母子で保健室登校を始めたある日、突然ユウ君が「痛い、痛い」と涙目で訴え出した。母は音や刺激は何も感じなかった。ユウ君が「誰かが外でボールをやっている」と言うので、母が保健室のドアを開けて校庭を見た。すると、上級生たちが体育の授業を始めるところで、ボールをバウンドさせたり、投げ合ったりしていた。保健室の中からは、その様子を見ることはできない。なのにユウ君は「針が刺さるような痛み」を感じると言った。
母は愕然とした。
「私が全く気づかないところで、これまで息子は痛みを我慢していたのだと知ったのはこの時です。これでは、学校のどこにも居場所はないだろうと実感した瞬間でした」