白黒とカラーが意味するもの
観客を戸惑わせるかもしれないのは、上記の物語が大部分はカラーで描かれるのに、一部は白黒で描かれることである。白黒で描かれるのは主に、上院での公聴会、そしてホテルでの原子力委員会の会議のシーンなどである。
オッペンハイマーのスパイ嫌疑の調査の場面が白黒で、それ以前の、ロスアラモスでのトリニティ実験を頂点とする時系列に沿った伝記部分がカラー、つまり戦前・戦中がカラーで戦後が白黒なのかと思いきや、そうではない。戦後であるはずの原子力委員会での尋問の場面はカラーなのだ。
通常の映画表現では、しばしば白黒は回想シーンに使われる。その直感に逆らっているだけでなく、戦前・戦中=カラー、戦後=白黒というわけでもないのだ。これが混乱のもとになるかもしれない。
簡潔な答えは、オッペンハイマーの視点がカラーで描かれ、ロバート・ダウニー・Jr.演じる、アメリカ原子力委員会の委員長ルイス・ストローズが中心的に描かれる場面が白黒で描かれているというものである。より正確には、ストローズの「視点」というわけではなく、オッペンハイマーの「主観の外側」と言うべきだろう。
実際、すでに出版された台本を読んでみると、白黒の場面は3人称で書かれているのだが、カラーの場面のト書きはなんと「私」を主語に1人称で書かれている。
これは映画の台本としてはかなり異例である。例えばこんな感じである。尋問者の「どうしてアメリカを離れたのか」という質問に続く台本は以下のようになっている。(なお、私は本作の日本語字幕版は未見であり、ここでも英語の脚本から独自に翻訳する)
室内。2022室、原子力委員会──日中(カラー)
部屋は小さくみすぼらしい。私は驚いて陳述原稿から目を上げて私の告発者のロジャー・ロブを見る。それから3人の委員(グレイ、エヴァンズ、モーガン)の方を向く。
オッペンハイマー:新しい物理学を学びたかったんです。
カラーの場面のト書きはこのように、「私」「私の」という1人称で書かれている。カラーと白黒のこのような利用は、ノーラン監督の出世作『メメント』を彷彿させるものであるが、その狙いはなんなのだろうか。
ひとつには、自らが開発した原爆が広島と長崎を地獄へと突き落としたことを知り、戦後に水爆の開発と核軍拡に反対するようになったオッペンハイマーと、原子力の利用を推進しようとするストローズとの対決を強調するためでもあるし、オッペンハイマーという個人の内的な物語と、外側の歴史とを結びつけて表現するためでもあるだろう。
この手法は確実に、この映画に独特な感触を与えている。この映画は通常の意味での群像劇ではまったくない。オッペンハイマーの主観に奇妙に閉じこもりつつ、「(主観的な)現実」と「(客観的な)歴史」が完全に統合されないままに、劇が進んでいく感覚を覚える。