医師の診断書を出せなかった理由
訴訟も終盤に差し掛かってきた2019年3月、第16回口頭弁論前の進行協議で、裁判長の高島義行らが、原告側弁護団にこう投げかけた。
「原告らが罹患している病気については、陳述書で言っているだけですよね。診断書を出すなど、主張を補充することを検討されませんか」
裁判所が着目したのは、厚労省令が定める11種類の障害を伴う病気、通称「11障害」のことで、肝硬変や糖尿病、甲状腺機能低下症などが該当する。健康診断特例区域内にいた人が発病すれば、被爆者健康手帳が交付される対象の病気だ。
原告側弁護団に、高島らの意図は容易に想像できた。「裁判所は、11障害を要件として原告らを被爆者に認定しようとしているのではないか」。
提訴からすでに3年半、なぜいまだに診断書を提出していなかったのか。訴状では、「放射線被曝のために、がんなど種々の病気に罹患し、又はいつ発症するか分からない強い不安を抱えながら原爆投下後70年もの間懸命に生きてきた」と訴えている。これを裏付けるならば、診断書の提出は効果的なはずだ。
そうしてこなかった理由を原告側弁護士の竹森雅泰が説明する。
「新たな分断を生まないか、心配だったんです」
黒い雨被爆者にとっての戦後は、「分断」との闘いだった。
特例区域を巡っては、集落を横切る小川などで境界線を引かれた。その線は、同じ村、家族、同級生の間で「被爆者になれる」者とそうでない者とを分け、格差を生んだ。
ただ、その援護措置も、直接被爆や入市被爆といった他の被爆者には求めない一定の疾病を要件とし、ハードルが課されていた。これもまた、本来同じ扱いを受けるべき「被爆者」間に差を付け、いずれも放射線による被害を受けた者たちを分断した。
竹森が懸念したのは、病気を患っているか否かによる新たな「分断」だ。
原告らが訴える健康状態から考えると、まず間違いなく原告全員が何かしらの病を抱えているという確信はあった。しかし、医師の診断を受けた時に果たして全員が11障害を有しているだろうか。
さらに、「被爆者」になるためには「原子爆弾の放射能の影響を受けたことを否定できない事情」があればよいと考えており、発病は必要条件ではない。
だが、裁判所の狙いは理解できた。原告側弁護団は決意し、原告らに医師の診断書を取り寄せるよう指示した。9月には、連絡が取れなかった一人(後に入院していたことが判明)を除く84人全員(当時)の診断書が集まった。
結果は、全員が11障害のいずれかを有していた。
つまり、原告らが雨を浴びた地点が「大雨雨域」、すなわち特例区域内だったなら、全員に被爆者健康手帳が交付されるということだ。