被害者家はいつ“赦し”を与えたのか
もう一点重要なのは、加害者側の父親が将来ある息子のために、自らが運転していたことにして身代わりで逮捕・禁固刑に処されるという展開だ。日本だと身代わり出頭してそれが発覚した場合は、身代わりを引き受けた側も、身代わりしてもらった側もどちらも罪に問われる。フィリピンの法律でもそうなのかもしれないが、それが露見することはない。テーマとなっているのは、むしろ“心の中の罪悪感”だ。
物語の後半、加害者家族は、大黒柱の父親が刑に服す一方、働き手を失った被害者家族全員を使用人として雇い入れている。大切な夫、大切な父親を奪った家族のもとで献身的に働く被害者家族の様子からは、加害者家族の父親が罪を認めて刑に服しているのだから、という理由からか、感謝の念こそあれ、心の負い目や恨みのようなものは感じられない。
父親が刑務所に入ることになる場面との間には時間的な経過があるので、あるいはその間、申し入れを受け入れるかどうか被害者家族の中でも葛藤があったのかもしれない。だが、そこを敢えて描かないことで、見ている者に「被害者家族たちは本当に加害者家族を心の底から赦しているのだろうか?」と訝しむような緊張感を強いている。
そして、刑期を終えて出所した父親を迎えての家族全員による祝宴が計画され、そのご馳走を被害者の妻が準備をする、というラストを迎えるのだが、祝宴が近づくにつれ、身代わりで服役した父親のお陰で刑を免れた息子の罪の意識が増幅される。社会的な制裁は受けることなく済んだが、自らの“心の中の罪悪感”から逃れられない。
これは、やはりフィリピンという国がカトリック国であることと関係があるだろう。劇中に度々挿入されるイエス・キリストのイメージからは、“自らの罪への赦しを請う者/赦しを与える者”のメンタリティの源泉がカトリック信者としてのアイデンティティにあることが見て取れる。