俳優はカメラのよさも暴力性も知っている(池松)
──「人はカメラを向けられると演技をする」というセリフが印象的でした。長女・花子(松岡茉優)は家族にまつわる作品を撮るために実家に帰ってくる映画監督ですが、彼女にカメラを向けられたときの、3人の挙動不審ぶりがすごく面白かったです。
佐藤 たとえドキュメンタリー作品でも、人はカメラを向けられた瞬間に無意識に演じてしまい、どこか過剰になってしまうと思うんです。感情をコントロールできなくなるんですよ。だからあのセリフは、まさにその通りだと思いました。
僕らは演者だから、カメラの前では逆に演じないようにするんです。でも俳優じゃない人はカメラを意識してしまう。ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(過激な手段で戦争責任を追求し続けるアナーキスト・奥崎謙三の活動を追ったドキュメンタリー/1987)なんて、まさにそのことを感じますね。
若葉 僕は俳優であるという意識がなかったら、カメラを向けられたときにあの3人くらい挙動不審になってしまうかもしれません。あのシーンは、ふだんカメラを向けられたときに被っている俳優の仮面を剥がされたような、解放された瞬間のような気がしました。
池松 浩市さん演じる親父が、カメラをチラチラ見ながら自意識と闘っている姿には最高に笑わせてもらいました。こんなにカメラに撮られてきた浩市さんによくあんな設定を(笑)。花子に「ダメだ! クソだ!」とか言われて(笑)。浩市さんにそんなこと言っちゃ駄目だよと思いながら隣で聞いていました(笑)。
意識的にも無意識的にも人は自分を演じる生き物であり、役割を演じる生き物だと思っています。今取材を受けている僕もたぶん演じていますし。俳優や監督はカメラの持つよさも暴力性も両方知っているものだと思います。
今作に関してはカメラを向けて演じてしまうその中にこそ、その人の真実が映るという捉え方に、石井裕也という映画作家ならではの視点を感じました。だからこそ映すという行為が必要だったんだと思います。
家族がいて当たり前の日々こそ幸福(佐藤)
──家族は鬱陶しいところもあるけど、とても愛おしい存在であることがこの映画を通して伝わってきたのですが、みなさんも同じように感じたエピソードはありますか?
佐藤 おそらく世代によって家族への思いは違ってくると思うけれど、僕の世代だと、すでに失っている家族もいるので、だからこそ気づかされることがあります。家族との別れはいつか来るし、不意に家族を奪われてしまうこともある。家族はそこにいるのが当たり前だと思って生きていられるのは、とても幸せだということ。その幸せに気づかないことも含めてね。
若葉 僕の実家は大衆演劇の一座なので、父親は、あるときは演劇の師匠、あるときは家族という、少し変わった関係です。稽古のときの父は厳しく怖い顔だったけれど、家族で食卓を囲むときは普通のおじさんになっていて、そのギャップに戸惑っていました。もちろん父親への尊敬はありますが、一般の家族と違う食卓は居心地がいいとは言えなかったし、遠慮もあったし、怖いという気持ちもありましたね。
だた、そんな父が舞台に出る間際に見せる怯えた表情を鮮明に覚えています。今改めて思い返すと、その恐怖心は共有できるし、とても愛おしく感じます。もしかしたら思い出として美化されているかもしれませんが、家族ひとりひとりの臆病さを、今はすごく愛せます。
池松 この映画の特別なところは、花子が社会で全否定され、すべてを失い、なにも信じられなくなったとき、ぶっ壊れていた家族を頼るということにあると思います。最後にどうしようもない家族を頼ることで尊厳を取り戻していきます。
これからの時代、人は社会で生きる上で、それが仮に家族でなくとも、他者によって“存在”という、うまく証明できない不確かなものを肯定できるのだと思います。
この家族は互いの儚い存在を確認するため、これまでしたこともなかったハグを試みます。そういうことに立ち返る映画だと思います。そこに新しい時代を生きていく上での微かな希望を映し出しています。見終わったあと、家族のこと、大切なひとのことを想うような映画になったと思います。