小早川秀秋は開戦後に逡巡していた?

笠谷氏は、小早川秀秋が開戦直後に裏切り、東軍が危なげなく圧勝したという見解に対しても批判を加えている。

先に紹介したように、白峰旬氏は吉川広家書状の「即時に乗り崩した」という表現などを根拠に、関ヶ原合戦は開戦と共にあっという間に決着がついたと説いている。

これに対し笠谷氏は、「この『即座に乗り崩し』というのは当時の武将たちの、勝利を収めたときの常套表現と言って差し支えない。『手もなく簡単に片づけてやった』という口癖のようなものであって、本当に『あっという間に』であるかは定かではない」と批判する。

笠谷氏は、八時間を要した長篠合戦の勝利を細川藤孝に報じた織田信長の書状にも「即座に乗り崩し」の表現がある、と指摘する。

関ケ原の戦い「徳川家康神話」崩壊か…新説「問鉄砲はなかった」の真意に歴史学会に衝撃走る!_6
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この指摘は重要だが、白峰説は吉川広家書状の「即時」だけを根拠にしているわけではない。

(慶長五年)九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(「堀文書」)の記述を見る限り、開戦間もない巳の刻(午前十時頃)に小早川秀秋が裏切って、あっという間に東軍勝利が決まったと考えられる。

これに対して笠谷氏は、「関ヶ原合戦の開戦時刻については、諸種の史料を総合的に勘案するならば、だいたい午前八時頃であったかと思われる」と主張する。

そして「当時の戦いにおいて、明け方までに両軍の布陣が完了しておきながら、昼近くの一〇時になって漸く開戦するなどということは先ずないことである」と指摘する。

笠谷氏によれば、「当時の合戦における基本形は、両軍がともに布陣を完了していたという状態の下では、早朝、払暁〔卯の刻〕とともに戦闘が開始される」という。笠谷氏は姉川合戦、長篠合戦も早朝、払暁から開戦に及んでいる、と根拠事例を挙げており、一定の説得力を持つ。

しかしながら午前八時頃から開戦したと記す史料は、全て後世に成立した二次史料であり、一次史料である石川康通・彦坂元正連署書状写の記述を重視すべきであろう。関ヶ原合戦において開戦時刻が通例より遅かったのは、当日朝は深い霧が立ち込めており、同士討ちを恐れたためと思われる。

なお高橋陽介氏は、井伊直政と松平忠吉が霧の中で抜け駆けをして合戦の火ぶたを切ったという話は一次史料では確認できず、後世の創作であると指摘している。やはり白峰説が妥当であると筆者は考える。

文/呉座勇一

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