毛利家は九月十四日の時点で降伏を願い出ていた?
さらに高橋氏は、小早川氏だけでなく毛利氏も、関ヶ原前夜に東軍加担を決断していたと説く。
すなわち「九月一四日の夜、すでに東西両軍の勝負がついたと判断した南宮山の吉川広家は、東軍との和談交渉をすることを決意した。…(中略)…和談といっても事実上の『降伏』だが、事ここに至っては、毛利家としての選択肢は降伏するか、滅亡するしか残されていない。…(中略)…広家は美濃方面の大将である〔長束〕正家や〔安国寺〕恵瓊に相談することなく、和談の使者を垂井の黒田長政の陣地へ送り込んだ」
「〔十五日朝に〕井伊直政・本多忠勝ら〔徳川氏重臣〕と、吉川広家・福原広俊〔毛利氏重臣〕らが起請文をとりかわし、広家・広俊ら〔が〕人質を差し出した時点で、東軍と西軍の総和談は成立したとするべきである。そしてそれは、事実上の西軍の降参を意味する」というのである。
以上のように、白峰・高橋氏らの新説は、「問鉄砲」による〝逆転劇〞を否定し、関ヶ原合戦の開戦前から東軍の圧倒的優勢が確立しており、勝つべくして勝ったと主張するものである。
新説への批判、「問鉄砲」の再評価
ところが最近、笠谷和比古氏は「問鉄砲」は実在した、と主張して新説を批判した。
笠谷氏は『備前老人物語』に、徳川方が松尾山の麓に展開していた小早川の陣に対して誤射を装った訳ありの射撃を行ったという逸話があることに着目した。
笠谷氏は、誤射の体裁を装うという抑制された形での警告射撃ならあり得ると指摘し、「後世、家康側からの警告射撃に促されて秀秋が進撃したという話が独り歩きすることによって、家康の鉄砲部隊が松尾山山頂めがけて一斉発砲(いわゆる、つるべ撃ち)したという華々しい話へと肥大化していったものであろう」と推測している(『論争関ヶ原合戦』)。
しかし笠谷氏自身が認めるように、『備前老人物語』の「記事そのものは後代の伝聞に基づくものであるから第二次史料」である。著者も不明、成立年代も不明である。
笠谷氏は「第二次史料だからといって一律に否定、排除するというのは妥当とは言えない」と主張するが、つるべ撃ちによる「問鉄砲」を叙述する史料は否定し『備前老人物語』は信用できる史料として採用するという基準は不明確で、恣意的な判断に思える。何より、「問鉄砲」の初見史料である『慶長軍記』への分析を欠いているため、笠谷説には従えない。