「この前、五頭シメちゃったよ」

10頭飼ったら年間の維持費はかるく100万円超え。犬橇を始めるハードルの高さと犬集めの苦労_3
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イラングア・クリスチャンセンという、とても陽気で、私にも非常によくしてくれる愉快な初老の人がいる。村にはほかにイラングア・ヘンドリクセンという若手の猟師がいてまぎらわしいため、初老のほうを大イラングア、若手のほうを小イラングアと呼ぶことにするが、この大イラングア、犬を躾ける名人としても知られ、彼の犬はとにかくよく橇を引くと山崎さんから聞いていた。

実際、彼の犬を見ると身体も大きく、毛なみもよくて、じつに魅力的だ。私は、大イラングアの犬、欲しいな……と思い、犬集めの初期の段階でゆずってくれとたのんだことがある。すると彼は「アイヨ〜(なんてこった)、この前、五頭シメちゃったよ」と苦笑した。

残酷に感じるかもしれないが、これは当地の人々の典型的な答えだ。イヌイットにとって犬は愛玩動物ではなく純然たる労働犬である。家畜なので、橇引き犬として役にたたないとみなされた時点で、処分される運命にある。

大イラングアの言い分は〈使えない犬が五頭いたのでそれなら売ってやってもよかったが、この前、殺しちゃったのでお前にやる犬はない〉ということなのである。おなじことをほかの人からも何度かいわれた。

地元民は、必要なし、と判断した駄目犬しか売ってくれない。逆に手許にのこした犬は手塩にかけて育てたかけがえのない犬だ。分身みたいなものなので、懇願しても売ってくれない。カネの問題ではないのである。

犬橇をやるぞ、と息巻いて来たのはいいが、誰にお願いしても「いまは数が少ない」と断られるばかりだった。私にはもともとウヤミリック(首輪)という六年来、行動をともにしてきた相棒犬がいたので、それをふくめてまずは五頭ではじめようと目論んでいたが、のこりの四頭がなかなか見つからない。

そんななか、たった一人だけ売却に前向きな村人がいた。アーピラングア・シミガックという、これまた六十前後のベテラン猟師である。

文・撮影/角幡唯介  

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裸の大地 第二部 犬橇事始
角幡唯介
10頭飼ったら年間の維持費はかるく100万円超え。犬橇を始めるハードルの高さと犬集めの苦労_4
2023年7月5日発売
2,530円(税込)
四六判/360ページ
ISBN:978-4-08-781731-7

一頭の犬と過酷な徒歩狩猟漂泊行にのぞんだとき、探検家の人生は一変し、新たな〈事態〉が立ち上がった(『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』)。百年前の狩人のように土地を信頼し、犬橇を操り、獲物をとりながらどこまでも自在に旅すること。そのための悪戦苦闘が始まる。橇がふっ飛んで来た初操縦の瞬間。あり得ない場所での雪崩。犬たちの暴走と政治闘争。そんな中、コロナ禍は極北の地も例外ではなく、意外な形で著者の前に立ちはだかるのだった。裸の大地を深く知り、人間性の始原に迫る旅は、さまざまな自然と世界の出来事にもまれ、それまでとは大きく異なる様相を見せていく……。

〈目次〉
泥沼のような日々
橇作り
犬たちの三国志
暴走をくりかえす犬、それを止められない私
海豹狩り
新先導犬ウヤガン
ヌッホア探検記
"チーム・ウヤミリック"の崩壊
*巻末付録 私の地図[更新版]
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