どうやって犬を集めるか

人間、生きていると、ふとしたときに、それまで思いもよらなかった新しい道がひらける瞬間がある。その道はなんの根拠もなくあらわれたものではなく、これまで生きてきた私自身の生の履歴が母胎となっている。

これまでの経験が海豹との出会いという目の前の偶然に触発され、化学反応を起こし、そのはざまから出現する新しい道。だからその新しい道には私自身の全過去が、もっというと私そのものがのりうつっている。

10頭飼ったら年間の維持費はかるく100万円超え。犬橇を始めるハードルの高さと犬集めの苦労_2
荷物を満載にした状態の橇。橇の自重ふくめて推定500キロ

それだけに私はそれから逃れられない。その先でどうなるかはわからないが、見えてしまった以上は、その道を進むしかない。それが自己への責任なのだと私は思っている。犬橇はまさにそのような突如ひらけた新しい道であった。

犬橇をやると決めた私はその年の一月に村に来て、すぐに犬を集めはじめた。だが、それも決して簡単なことではなかった。

たしかにシオラパルクには犬がたくさんいる。

グリーンランド北部は狩猟民の伝統色が濃厚で、日常的に海豹や海象、鯨、白熊といった海獣類を獲って暮らしている。しかし狩猟よりも伝統をかんじさせるのが犬橇だ。スノーモービルで走るカナダやアラスカのイヌイットとちがい、グリーンランドではいまも犬橇が生活の足として使われている。

人家の脇に野性味あふれる犬がたくさんつながれ、狼のような遠吠えが夜空にひびき、海岸には獣の血や脂で黒くなった橇がならぶ。人々が狩りで獲物を仕留めるのも、犬に餌をあたえるため、といった側面がつよく、犬を飼いならす一方で、まるで犬に飼いならされているふうでもある。

横で見ていて、犬は労働犬として重要なだけでなく、存在そのものが村人の生き方、実存に大きな影響をあたえているのである。風景や人々の暮らしぶりが、どこか太古の時代から地続き感を感じさせるのは、犬に大きな要因があると私には感じられる。

とはいえ、そこは時代の荒波にさからえないところがあり、村人もさすがに三十年前、四十年前ほど狩りや犬橇を活発にやっているわけではない。となりのカナックの村に行けば、まだそこそこの数の犬がいるが、シオラパルクのような小さな猟師村は高齢化と過疎化が進み、村人も最低限の犬しか飼っていない(といっても成人の男一人につきだいたい十頭以上の犬は飼っているが……)。犬を飼うとそれだけ餌となる肉が必要となり、狩りの負担が増すからだ。

最低限の犬しか飼っていない以上、のこされた犬は基本的に優秀で飼い主が手放したくない犬だ。よそ者の私がのこのこと出かけて、「犬橇をはじめるから売ってくれ」とお願いしても、なかなか首を縦にふってくれるものではない。癖が悪かったり、喧嘩っ早かったり、先の短い老犬だったり、飼い主が、もうこの犬はいらないや、とみかぎった犬がせいぜいだ。