新自由主義における自己責任論の内面化
五野井 山上被告は、自分の兄や妹を背負うのも自分だと思っていました。困っている人が新自由主義の自己責任論を内面化すると、自分をさらに不利にしようとも、すべてを背負い込んでしまいがちです。では、どのようにしたら山上被告は救われたのでしょうか。
ジャーナリストの有田芳生さんが言っていたことですが、1995年にオウム真理教の事件があって、破防法の適用云々という話もあり、国としてオウム真理教には対策を講じました。そして、「次は統一教会だな」と政府の関係者が言っていましたが、約30年間動かなかったわけですね。新自由主義の自己責任論を内面化した山上被告はどう思ったでしょうか。国は対処してくれない、ならば、自分がやるしかないと思ったのでしょう。しかも彼は「宗教二世」として、自分はそれを背負わざるをえない運命だと考えてしまったのかもしれません。
池田 優しさ故のなせるわざとも言えるような責任感の強さ、まじめさ、そしてそれがある程度できてしまう能力の高さ、そういったものが彼の悲劇を形づくっていったのでしょうか。
五野井 そうですね。しかも、「宗教二世」ということは変えられないことだし、それを運命だと思って彼はまた背負い込んでしまいました。社会学者の内田隆三さんがかつて述べていたことですが、「自分の身の上に起きていることを運命だと思ってしまったら、変えられない。しかしそれが運命ではなくて、社会が自分に不当にも課していることならば、変えられる」。社会は神の定めではないのだから変えられるわけです。
山上被告は、30年間放っておかれた旧統一教会の問題を自分で解決しなければならないと思い、そこも含めて自分の「運命」だと思ってしまったのだろうと思います。ここには政治の不作為という問題があるのではないかと思います。
池田 山上被告からすれば、父の自死や母の入信、兄の大病から自死などは、すべて自分の「外」から降りかかってくるものですが、目の前の生々しい肉親のことなので、もう一段抽象的に、いま五野井さんが言ったような社会のことを考えることができなかったのでしょう。
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