テロとして見立てることから始める
――今年起こった多くの事件の中でも、7月8日の安倍晋三元首相銃撃事件は歴史の転換点になったとも言っていい出来事だったと思います。
同事件を巡る論点は数多くあります。そのうち、重要だったと思うものの、現在では忘れられつつあるのが、発生当初に「これはテロなのか?」という議論が交わされたことです。
――磯部さんは『新潮』9月号に掲載された論考「安倍元首相射殺事件――令和四年のテロリズム」で、「衝撃を受けたのは、この時代、この国で正真正銘の〝テロ〟が起きてしまったということだ」と書いていましたよね。
もちろん、「これはテロなのか?」という議論自体は、近年、凶悪事件が発生する度に行われてきました。
〝テロ〟の定義に明確なものはありません。ただ、最大公約数的に「犯罪行為が引き起こすテロル(恐怖)を通して、社会に対して政治的なメッセージを発信すること」とは言えます。
つまり、「これはテロなのか?」という問いは、「これは政治的な事件なのか?」と言い換えることができるでしょう。
安倍元首相銃撃事件の場合は、まず、選挙期間中だったこともあって、政治家の側から「これはテロだ」「民主主義を脅かす行為だ」という主張がなされました。その一方で、早い段階で山上徹也容疑者は「犯行動機は安倍元首相の政治信条に対する恨みではない」と供述しているとの報道もありました。
そこで、事件がむしろ政治的に利用されるのではないか――つまり、弔い合戦的に与党の追い風になってしまうのではないかと危惧した側から、「これはテロではない」「あくまでも個人的な問題だ」という反論が出た印象です。
ただ、その後、メディアと世論は、事件によって注目された政治と宗教の癒着を糾弾する方に向かい、実際、政治が揺るがされました。
山上容疑者の動機が明らかになるのはまだまだ先でしょうが、事件がテロとして機能してしまったことは間違いないわけです。
しかし『新潮』9月号の論考を書いた時点では、多くの人が「犯行は決して許されないが、この機会に政治と宗教の癒着の問題は徹底的に追及されるべき」というように、事件と問題とを切り離して語っていました。
それは正論のようでいて、以前から政治と宗教の癒着について地道に取材を進め、問題を指摘してきた人たちがいるにも関わらず、あのようなショッキングな事件が起こらないと本腰を入れなかった自分たちを棚に上げているのではないかとも思えるのです。私もそのひとりですが。
だったら、非常に語弊がある言い方ですが、自分が山上容疑者の犯行に影響を受けたこと、すなわち彼が〝優秀〟なテロリストだったことを認めざるを得ないというところから議論を始めるしかないのではないかと考えたのです。