「生活保護に頼る奴はダメな奴」論

池田 山上被告という人物は「自己責任」という考え方に骨がらみになっていると、五野井さんから今回教えられました。私のような世代には、その度合いの凄まじさには想像力が追いつかないところがあります。自己責任論でがんじがらめになっていると、セーフティネットを見ようとしない、探そうとしない、求めようとしない、そして孤立していってしまうということがありませんか?
 
五野井 あります。実際、彼のツイートのなかで、生活保護について、「頼りたくない」という趣旨のものがいくつかあります。普通に考えれば、税金を払っていようがいまいが、この国に生まれて、人である以上は(平和的)生存権があるし、社会保障としての生活保護は当然の「権利」です。その権利を利用するということは、われわれがバスや電車を使ったり、子どもが学校や図書館に行ったりするのと同じことです。

新自由主義の自己責任論がこの30年間、われわれの脳裏に刻み込んできたのは「生活保護に頼る奴はダメな奴だ」ということです。それは生活保護バッシングというかたちで、自民党の片山さつき議員などが散々っぱら行ってきました。またそれを真に受けてしまった鎌倉市は、一時、生活保護を受け付ける窓口を封鎖していましたが、もちろんこれは憲法違反です。

官僚や地方公務員は、政治学の言葉ではストリートレベルの官僚制といって、裁量権が結構あります。だから生活保護の申請をする女性にセクハラをする最低な公務員もいますが、そうならないために、徳目として、社会保障とはこういうものですよ、政治とはこういうものですよといったことを解かせる試験を彼らは経てきているはずなのです。そういう学があるはずの人たちですら、生活保護を受けることが悪であるかのように思わせられていて、きっと山上被告もそう思ってしまっていた。

辛かったら助けてもらえばよかったのに、そうなるのはイヤだというプライドがあり、彼は器用で頭がよかったので、頑張れてしまった人なのです。自衛隊にも入っていたので体力もありました。途中で頑張れなくなったら、誰かや何かに助けを求めざるをえないはずですが、彼はたまたま能力があり、新自由主義の自己責任論を自分自身の血と肉にしてしまったがために、助けを求めませんでした。

山上徹也と日本の「失われた30年」。彼はなぜ、“弱者切り捨て社会”において誰にも救いを求めなかったのか?_4
山上徹也被告(写真/共同通信社)

池田 母親によるカルトへの献金のために家族が破綻して、山上被告の兄が弁護士をしていた伯父に電話したりします。祖父とは、家の大変な問題が発覚したときに揉めて、「家から出ていってほしい」と言われたりします。