エッセイは漫談で、小説は漫才、脚本はコント
――なるほど。どちらかというと、“点”ではなく、“線”で捉えている人が多い気がします。
自分も含めてですけど、ある程度経験を積んでしまうと「いや、これはこうやから」「それやっても無駄やから」とか、経験から導き出した結論めいたものを言いがちじゃないですか。
でもそれって必ずしも正しいとは限らないというか、そういうのに対して「うるさいな、言うこと聞くもんか」って思ってやりたいようにやった結果うまくいったことも若い頃にあったんで。
経験を積んでリスクに敏感になってくると、何かやろうと思ってもいろいろ考えた結果「やめとこか」ってなることが増えますよね。
でもどこかではやっぱ無茶してチャレンジしなければ超えていけないところって必ずある。
今の自分の確率論じゃなくて、「失敗したって来年になったら誰も覚えてないわ」くらいで思い切っていくべきときもあるのかなって。
そういう意味でいうと、今の自分がいちばん正しいとは思えないところはあります。
――実際に「リスクはあるけどやってみよう」と思って始められたことは、近年でいうと何でしょう?
脚本がそうかもしれないです(2017年にNHK『許さないという暴力について考えろ』で初のドラマ脚本を執筆)。小説書いてエッセイ書いて、その他もろもろ仕事がある中で脚本も書くってなると、もう一個広げる感じがするじゃないですか。
広げていくべきか、深めていくべきかっていうのがあって、最初に小説書いたときに「これからも書いていくのか」「もう芸人はやめるのか」とかいろいろ言われたんです。
僕はそういう質問の意図があまりつかめなくて「どういうことなんやろう」と思ってたんですけど、ここで脚本もとなると、さらに増やしてる感じがするのかなとは思いました。
でも根本で「何か面白いものをつくりたい」という部分は一緒で、そこでつくるのが自分に特性があると信じられるもの、あるかもしれないと思えるものであれば、やっていいんじゃないかなと思って始めました。
――若手時代に、神保町花月で舞台脚本は書かれてましたよね。
そうですね、書いてました。昔から演劇が大好きでコントも大好きで、その2つってそんなに違うかな?って思っちゃうんですよね。
自分たちの単独ライブではコントをいっぱいやるんですけど、最後に30分くらい演劇みたいなことをやってました。お客さんは多分コントとして見てたけど、それってそんなに垣根あるのかなって。
今は映像の脚本を書いてますけど、コントを書ける場になるかもしれないという気持ちは結構ありますね。
イメージとしては、エッセイは漫談で小説は漫才で脚本はコント、みたいな感じはしています。
――「小説は漫才」というのは会話の部分ですか?
会話ですね。それと、今のところ僕の小説の書き方って、自分の内側にも向かっていくけど、どっちかというと人との関係性みたいなところがあるんですよね。
漫才も結局、言葉遊びもあるけど、二人の関係性にちゃんと熱があるものが面白いと僕は思ってるんで、そういう意味で共通するかなと。