谷崎潤一郎で変態文学に目覚める
──先ほど「“本好き”と“変態”が別々だった」と話していましたが、両者が合体したのはいつ頃でしたか?
はっきりと本好きと変態が合体したのは高校生の頃でした。当時の国語の教科書で谷崎潤一郎の作品を知ったのがきっかけだったのですが、読み進めていくうちに「教科書なのに変態すぎない⁉︎ 文科省大丈夫⁉︎」と衝撃を受けてしまいました。
そこから谷崎をはじめ三島由紀夫など、なぜか教科書に載っていた変態性の高い文豪たちの作品を読み始めて、そこから耽美派を中心とした純文学に傾倒していって。この頃から彼らの作品を「変態だな~」と思っていました。
──耽美派の文豪たちの作品を多く読まれていたのですね。
そうですね。高校卒業後は浪人を経て北海道大学経済学部に進学しました。入学後は自由な時間をフルに使えたこともあって、ピンポイントで変態性の高い文学ばかりを読み漁っていたんです。そのおかげで高校の頃に気づいた自分自身の変態性が、歳を重ねるごとにだんだんと純化されました。
この頃ににどっぷりハマったのが、澁澤龍彦の作品や翻訳集です。マルキド・サドの『悪徳の栄え』を澁澤龍彦が翻訳していたことから彼を知ったのですが、このような方面に傾倒していったら、気づいたら海外の変態文学にも手を出していました。
澁澤龍彦からアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの『城の中のイギリス人』を学んだり、アンドレ・ブルトンなどのシュールレアリズムの作品にも傾倒したり、オスカー・ワイルドのようなデカダンス文学にも没頭しました。
──日本文学、海外文学の分け隔てなく読まれているのですね。
そうですね。また、より変態に寄ったものとしては「富士見ロマン文庫」という官能小説の文庫レーベルを読み漁るなど、大学生の頃にはとにかく幅広い作品に手を出しました。私は文章を読むのが遅いので、どの本を読むかというリサーチにものすごく時間をかけます。そのため情報が煮詰まっていき、読む本の変態性が純化されていくのです。自分の趣味嗜好に合った本しか読みたくないという感じですね。