稀代の評論家をインストールせよ
作文指南の本は数多あるが、類書が逃していた作文の要諦を的確に押さえた、新しい名著が刊行された。鷲巣力『書く力』である。本書は、文学、芸術、政治など多方面で優れた業績を残した評論家の加藤周一の文章を通して、作文指南を施す。
文章読本と言えば、テーマや技巧に合わせて、様々な作家の文章を例示するものがほとんどだが、本書が挙げるのは加藤周一のみ。そのように書くと、作文指南として偏るのではないかという疑問が生じるだろう。しかし心配には及ばない。なぜなら加藤は、正しく世界を理解するための科学の言葉、効果的に伝達するための詩の言葉、その両方を持っていた稀有な作家だからだ(実際、採択されている文章は、加藤のそうした文体が完成したと著者が考える、一九六〇年代半ば以後のもので占められている)。
加藤の精密な文章を、その技法や思考に着目しながら丹念に読み、作文技術を抽出していく。その結果、書く力に加えて、読む力も養成されるし、加藤の名文集としても味わえる。つまり、本書は作文指南、読解力養成、加藤周一入門という三つの要素を含むのだ。むしろ本書を読み終える頃には、健全なる書く力とは、作文力、読解力、思考力という三位一体によって成り立つことが了解されるだろう。
以上のような作文の勘所と加藤周一を深く理解しているのが鷲巣力という書き手である。加藤の編集者として、加藤の謦咳に接し、著作集などの編纂、数々の加藤論の執筆を手掛けた。一方で、宅配便やコンビニエンスストアなどの日本の流通事情に関する書籍も上梓している。それらの本にも、列挙や対比、過去と現代との往還により思索を深めるといった、加藤の技法を自家薬籠中の物にした著者の鋭い筆致が見られるのは言うまでもない。本書は、加藤周一を誰よりも読み込み、実践に活かしてきた著者だからこそ成し得た、稀代の文章読本なのだ。骨太の書く力をじっくり錬成したい人におすすめする。