「9冠」後、新チームの苦悩
あの“事件”を思い出すたびに、温厚な田臥勇太が少しだけ表情に陰りを見せる。
「なんか、大変だったみたいですよね。悔しかったし、残念だなって思ったし。『できることなら一緒に戦ってあげたかったな』と感じることもあるくらいで。辛い思いをさせちゃったのは申し訳なかったな、と」
田臥の世代は、高校に入学した1996年からインターハイ、国体、ウインターカップの高校バスケットボール3大大会で3年連続優勝。前人未到の「9冠」の偉業を成し遂げた、常勝・能代工の象徴でもあった。
監督の加藤三彦が、「次の年、また次の年とプレッシャーがかかるなか、勝ち続けてきた彼らはすごい」と最大限の賛辞を贈るのも頷けるが、裏を返せば、それだけ下の世代への負荷が増すことにもなる。
堀里也が3年生の99年がそうだった。
9冠を達成した前年のウインターカップ直後から、否応なしに「12冠」への期待を寄せられる。
そんな声を向けられるたびに、新キャプテンとなった堀は「自分たちができることをやるだけです」と、機械的に答えるのみだった。
「プレッシャーがそうさせていたのかと言ったら、そうではなくて。入学してから勝ち続けているから、感覚が麻痺していたんでしょうね。勝てるもんだと思ってましたから」
「王者」といわれて…近づくインターハイ
新チームが始動すると、加藤は必ず「お前たちはまだ、何も成し遂げていない」と、それまでの実績が先輩たちの功績によるものだと訴える。そこで彼らは謙虚になり、自分たちのチームを作り上げていくのだが、堀たちの世代にはそれがなかった。「勝てる」という自信に、根拠を持たせられなかったのだ。
2学年上は畑山陽一と小嶋信哉、1学年上では田臥と菊地勇樹、若月徹が1年生からスタメンとして経験を積んできたが、堀たちのチームにはそのような選手がいなかった。
2年生までガードは堀と扇田正博、フォワードでは村山範行が出場することが多かったが、ミスをすれば交代させられる場面が目立ち、不動のプレーヤーとは言えなかった。
チームは未成熟。ただ、先輩たちが残した財産によって「王者」と祭り上げられる。招待試合などの行事が増え、満足な準備ができないまま、夏のインターハイの足音だけが近づく。