常連客にダメだしされて奮闘、やがて名物に
「本業は魚屋なんだよ。だからそばは素人、というかここで働いているの全員、素人だよ(笑)。そりゃ最初は苦労したよ。天ぷらなんて揚げたこともないんだもん。先代の番頭さんみたいな人に一から叩き込まれました」
なかでも苦労したのは、いまや店の名物として「客の80%が注文する」という「いかげそ天そば」(550円)だ。
「最初はげそとタマネギを合わせたかき揚げにしてたの。そしたら先代時代からの常連さんから『こんなのげそ天じゃない』って怒られてね。じゃあってんで、げそだけの天ぷらにしたら、怒ってたお客さんが『うんうん、これこれ』って喜んでくれたよ」
努力の甲斐もあって、今では1日にでるそばは300杯、つゆを入れた大きめの寸胴が4、5杯無くなるという。
「立ち食いそば屋がこんなに忙しいもんだと思わなかったよ。私、オープンしてから毎朝4時起きで1日も休んでない。店に朝6時半に入って7時に暖簾を出そうと外に出たら、もうお客さんが並んでるんだもん。びっくりするよね」
取材したのは平日の午後3時、中途半端な時間帯にもかかわらず、客がひっきりなしにやってくる。中野さんが天ぷらを並べてある台を指して、「もうこんだけしかないよ」
たしかに半分以上がなくなっていた。
立ち食いそば店での人情
そこへ体格のいい30代前後の男性のお客さんか入ってきた。
げそ天を注文すると、中野さんが「ひと玉? ふた玉いっちゃえよ」と、そば玉をふたつ温めだした。
そばを大きめの丼に移し、上から真っ黒いつゆをかけて、げそ天以外にひとつ、ふたつと注文外の天ぷらを載せる。増量分はもちろんサービスだ。男性が恐縮している。
彼が食べ終えると、「これからまだ仕事だろ? 頑張ってな」と声をかけた。
「あの人、毎日来てくれるんだよ。仕事は、なんかご飯を運ぶの(「Uber Eatsですか?」)、ああ、それそれ」
サービスしたのは常連のよしみだけでなく、体を使って働く者へのいたわりかもしれない。注文を受けて丼を出すまで1分半、客が食べ終えて勘定を済ませて店を出るまで10分もしないだろう。
刹那的な食事でも、客が店を育て、店が客を大事にする人情が育まれている。
「立ち食いそば屋は大変だけど、先代からの常連さんが今も来てくれているのにはホッとしたね。それはよかった」
私もげそ天を注文した。
居酒屋などで出るげそ天は足をまるまる一本天ぷらにしたものが多いが、この店のものはひとくちサイズに切ってかき揚げにしてある。噛みしめるといかの旨みが口の中に広がる。衣もつゆが染みて美味しい。
それにしてもこの真っ黒い暗黒系のつゆ。関西から東京に出てきたばかりのころは、この黒さに驚いたなあ……などと思い出にひたっていると、中野さんが私の丼にも春菊の天ぷらを載せてきた。
「私にまでサービスされなくても」と慌てると、中野さんが小声で「天ぷらがなくなったら、店を早めに閉められるから……」
いっぺんでこの店が好きになった。