移民船若狭丸に詰めこまれた千二百人

四月二十日夕刻、フサノたちを乗せた若狭丸は神戸を出港した。遠ざかっていく六甲、摩耶(まや)の山並みが、いやがうえにも旅情を掻き立てた。デッキから見送りの人々に手を振っていた広島訛りの男が呟いた。

「神戸の街は海側から見るのが一番じゃいうけど、ホンマやなぁ。右の一番高いのが六甲山、真ん中が摩耶山、左が再度(ふたたび)山いうらしいが。フタタビヤマ、再び戻ってこられるかのぉ」。

渡された旅券には、「契約移民としてブラジルに赴く前記の者」と記されていた。伯剌西爾(ブラジル)移民組合と契約しているフサノたちは二年間、ブラジルの農園で汗を流すことになっていた。

船上から投げられた色とりどりの紙テープの端を岸壁の見送り家族が握りしめ、遠目に見る若狭丸は極彩色に塗られた遊覧船のようだった。

神戸港を出た若狭丸は、淡路島を右手に、左前方に紀伊半島の山々を眺めながら紀淡海峡を抜けて外洋に出た。急にうねりが増し、あちこちで嘔吐する苦しげな声が聞こえた。その時初めて、フサノは自分が間違いなくブラジルという見知らぬ土地に連れて行かれるのだと実感した。

若狭丸には一千二百人あまりの移民が詰め込まれており、男二人に女一人の割合だった。移民たちは三等船客以下の扱いで、貨物を積載するための船倉を二階建てに改造して居住区画としていた。身をかがめて歩かなければ鉄の梁(はり)に頭をぶつけるほど天井が低かった。

一家族当たり三畳ほどの狭い空間で手荷物の間に身を横たえ、隣との目隠しには毛布などをぶら下げていた。風呂も便所も台所も甲板にしつらえてあり、寄港や入港一週間前になると、その違法な設備が検査官の目に触れないよう居住区画に戻した。

ブラジルで落ち着いた頃、移民船の状態をポルトガル語でカルガ・ウマーナ、人間貨物と呼んでいることを知り、フサノたちは妙に納得させられた。

薄暗い居住区画では、日本各地からやってきた移民たちがお国訛りをがなり立てていたが、親身になってフサノの面倒を見てくれたのは沖縄の人々だった。その心優しさ、温かさが忘れられなかったのだろう。フサノは終生、「沖縄の人達は心が綺麗だから」と褒めそやしていた。