シンガポールと赤道祭
移民たちにとって、食事は楽しみにするような代物ではなかった。吹きさらしの甲板の仮設の調理場の前に並び、家族ごとの食事当番が「熊本県人本村末廣(すえひろ)」など家長の名が墨で書かれた木札を示す。
主食と副食類は大きな方のブリキ製のバケツに入れて渡される。下半分に盛り付けられた米飯は、食欲を減退させるような海のにおいが染みついていた。その上の仕切り板に副食類が乗せられる。
おかずといっても、十年一日の如く代わり映えのしない煮しめがほとんどで、ジャガイモ、人参、牛肉らしき肉片が入っていた。それに沢庵。味噌汁は小さな方のバケツに入れ、船倉の自分たちの居住区画まで運んだ。食器洗いは女たちの仕事で、これまた甲板での作業だった。
五月二日、フサノはシンガポールの手前で満十四歳の誕生日を迎えた。日本では庶民が誕生日を祝う習慣などない頃のこと、叔父たちもフサノの誕生日など気に掛けてもいない様子だった。
フサノは一人、今日、自分がこの世に生を受けたのだ、それも異国の地で誕生の日を迎えたのは定められた運命かも知れないと、この日のことを忘れないように心に刻んだ。
若狭丸の前部と後部の甲板には天幕が張られ、蒸し暑い船内から逃れてきた移民たちが身体を休めていた。五、六人が一度に入れる水風呂も前部甲板に設けられ、男も女も神戸出港から初めて身体の垢を流すことができた。
シンガポールの港内にはユニオンジャックをはためかせたイギリスの軍艦が何隻も停泊していた。その威光を背に、威張りくさったイギリス人の検疫官が乗り込んできて、甲板に移民を二列横隊に並ばせて点呼を行った。
埠頭では中国人の苦力(クーリー)が長い列をつくり、籠に入れた石炭を船に担ぎ込んでいた。水はポンプを使い、布製の太いホースで船内のタンクに注ぎ込まれた。
上陸を許されたのは一等と二等の船客と船長らに限られ、移民たちは沖泊まりした若狭丸の甲板で押し合いへし合いしながら、久しぶりの陸地、それも南国らしい白い建物が並ぶ大都会の景色をただ眺めるだけだった。
出港した神戸は日本でも横浜と並ぶ異国情緒を漂わせた街だったが、そんなものが田舎じみて見えるほど、一八二四年に大英帝国が開いた海峡植民地シンガポールは優雅で、異国そのものだった。
一等船客らを送迎している小型ボートに乗れば、数分で異国の地に立つことができる。いまの自分には望むべくもないことだったが、フサノの胸は少女なりの夢で膨らんだ。ブラジルに行って、そこから羽根を広げて色んな世界を見て歩くのだ。
甲板から下に目をやると、熱帯の果物を山盛りに乗せた物売りの船が横付けし、移民たちを見上げて声を張り上げていた。初めて見るマンゴー、パパイヤ、ドリアン…。甘ったるい果物の香りと一緒に、初めて嗅ぐ、臭いけれども食欲をそそる匂いも甲板に上がってきた。
フサノはまだ、それが中華文化圏にはつきものの香辛料八角の放つ臭気だとは知らなかった。
シンガポールに二泊した後、若狭丸はマラッカ海峡を抜け、インド洋に入るとすぐに赤道に近づき、さらに南下を続けた。