ブラジル、赤い大地に上陸
サントス港まであと二日という夕刻、右手前方に南米大陸の山々が姿を現した。既に前日、一等と二等の船客たちは宴を開き、別れを惜しんでいたようだった。二万二千キロメートルを踏破した五十八日間の船旅が終わろうとしていた。
入港日が近づくと、移民たちはそわそわと一月半の間に散らかった荷物の整理に取りかかった。大方の者が着物姿からにわか仕立ての洋装に衣装替えした。
フサノも木綿の袷(あわせ)から洋装に着替えた。神戸で末廣叔父が買ってくれた白いブラウスと地味なスカート。よろけないように靴は踵の低いものを選んでいた。デッキに出て外側から船室の窓ガラスに映すと別人のような自分がいた。フサノは髪を両手で押さえつけ、洋装に合うように整えた。
フサノたちの若狭丸は、第一回移民の笠戸丸より五日余分に航海し、ブラジルの赤い大地テラ・ローシャにたどり着いた。移民たちは接岸までの二日間、沖泊まりで検疫と入国審査を受けた。
到着した六月中旬は、夏を迎える日本とは正反対にブラジルは冬に入る時期だった。六月から十一月は乾期で、コーヒー豆の収穫が最盛期にさしかかる頃でもある。フサノたちは到着早々、ファゼンダと呼ばれるコーヒー農園で農作業に投入されることになっていた。
サントス港にさしかかったとき、目に入ったのは樹木に覆われた低い山々が連なる寂しげな風景だった。それから何キロメートルか河口を遡ると、左手に色鮮やかなサントスの街並みが広がっていた。赤い瓦屋根の下は青、黄、緑といった原色の壁。それが、フサノたちが目にしたブラジルだった。
笠戸丸以来、日本移民が第十四埠頭に第一歩を記してきたサントス港は一五四三年に建設され、約八十キロメートル離れたサンパウロの外港として栄えてきた。フサノたちが着いた頃はコーヒーの取引市場が経済活動の中心だった。
午前三時半に起こされ、七時半頃上陸すると、埠頭のすぐ脇の引き込み線に移民を運ぶための列車が待機していた。フサノたちは荷物をまとめ、家族単位で乗り込んだ。布団をむきだしのまま縄でくくって担いでいる家族も少なくない。
ギョッとさせられたのは、外側から大きな錠前がかけられ、ガチャンという音が響いたときだ。囚人や奴隷を運ぶ感覚なのだろう。逃げるに逃げられない気分にさせられた。木箱をつないだような移民専用列車はガクンと大きく揺れて発車した。車内は固い木製のベンチで、日本では見たことのない巨大な蒸気機関車に引っ張られていた。
サントス港を出ると、蒸気機関車は湿地帯やバナナ畑を抜けたあと、巨体を震わせながら急勾配をゆっくりと登り、クバトンという駅で停車した。そこで列車は六両ずつに分けられ、アプト式牽引線につながれ、ケーブルに引かれてノロノロと登りはじめた。
標高八百メートルのサンパウロに行くには、そうして海岸山脈を越える必要があった。山頂の駅で列車は再び十二両に戻され、サンパウロに向かった。右手の丘に建つ宮殿はブラジルがポルトガルに対して独立宣言を発した場所だと通訳が言った。サンパウロまで、あと八十キロもない。
文/小川和久
#1 1917年、13歳の船出。家族と離れ、ブラジルへ移民した少女 はこちら