南十字星は幸せを運んでくれる

シンガポール出港から四日目、「北緯零度を通過」と船内のスピーカーが赤道通過の日時を厳(おごそ)かな口調で告げ、一等船客には船長から赤道通過の証明書が手渡された。海神ネプチューンが間違いなく赤道を通過したと太鼓判を押してくれた通行手形である。

移民たちには証明書の代わりに一人一袋ずつ菓子が配られた。三等船客用の売店で売っている森永のミルクキャラメル、大阪の粟おこし、神戸の瓦センベイが、この日ばかりは無料で提供された。

フサノは生まれて初めてミルクキャラメルを口にし、粟おこしは終生、フサノの手土産の定番となった。儀式が終わると、甲板に急造された舞台で素人芝居やショーめいた出し物が演じられた。

フサノを可愛がってくれる沖縄の家族たちは蛇皮線を奏でた。赤道祭は移民たちの誰にとっても楽しい思い出を残した。三週間後、右手にアフリカ大陸が見えた。次の寄港地はアフリカ大陸南端の大都会ケープタウンだった。

インド洋の大海原を渡りきったあとだけに、移民たちは上陸して足の裏に大地の感触を味わいたい気分だったが、シンガポール同様、上陸は許されず、若狭丸の船上から街の背後に黒くそそり立つテーブルマウンテンを仰ぎ見て、それをケープタウンの記憶として脳裏に刻んだ。

標高一千八十六メートルの岩山は、山頂部分が三キロメートルにわたって平坦な形で、そこからテーブルの名がつけられた。「あれがクロンボばい」と末廣叔父が熊本弁で言った。フサノはこのとき、生まれて初めて黒人の姿を見た。黒人たちは粗末な衣服を身にまとって黙々と荷役を行っていた。

それにしても、とフサノは思った。つい先頃、素晴らしいと思ったシンガポールが田舎町に思えるくらいに、ケープタウンは活気に満ちていた。昼のように明るい電灯が港を照らし、建ち並んだ工場の煙突からは煙が立ち上り、機械の音が鳴り響いている。

フサノは、ここもまたイギリスが支配する土地だと教えられ、大英帝国の版図の広さを記憶することになった。

ケープタウンで二泊して港外に出るとすぐ、立って歩けないほどの大しけに見舞われ、船室の棚からは食器が転げ落ちた。六千トン級の若狭丸でさえ上下左右に大揺れした。大西洋の大しけはインド洋や東シナ海とは比べものにならない荒々しさだった。

船客の大半が船酔いで立つこともできず、寝床の周りにヘドを吐き散らす者も少なくなかった。しかし、十四歳のフサノは酔うこともなく、波が洗う甲板を走り回るのが楽しくて仕方なかった。参っている大人たち横目に、優越感すら覚えていた。

大西洋でフサノは船上の葬儀というものを目にし、人は死ぬと土に帰ると教えられてきたが、海の上では違うのだと知った。どこの誰かわからなかったが、死者は木製の棺に収められ、それを大きな日の丸が覆っていた。

船長や家族が手を合わせる前で、棺は船縁(ふなべり)から落とされ、大海原に消えていった。それが西欧流の水葬であることを知った。

それでも波が穏やかな日には大海原を疾走する若狭丸の横をイルカの群が泳ぎ、快適とは言えない船旅に安らぎを与えてくれた。生暖かく吹く熱帯の風と潮の香りに包まれ、フサノは甲板でゴロ寝したこともある。

伝わってくるエンジンの振動に身を委ねながら、フサノは満天の星空に輝く南十字星を何度も手で掴もうとした。流れ星が消えないうちに念じると願いが叶うとされるように、つかまえたサザンクロスが幸せをもたらしてくれそうに思えた。