「いじめ」という難問

最後に、大炎上の動力源となった社会を構成する一般の人びと、つまり私たち自身の問題に言及しておこう。

かつてフランスの社会学者デュルケームは、ある社会にとって逸脱とみなされる行為――殺人やその他の犯罪――は、被害者個人の問題を越えて、社会全体が共有する「集合感情」を侵害すると論じた。深刻な犯罪のニュースが、直接被害を受けていない人々をも憤慨させるのはそのためだ。

教育社会学者の伊藤茂樹氏が指摘するように(『「子どもの自殺」の社会学』青土社、2014年)、今日の日本社会では、いじめ自殺や、そうした結果を招きかねないいじめ加害は、この「集合感情」を侵害する行為の典型となっていると言える。社会の安定のため、侵害された集合感情は回復されなければならないが、そのための社会的反応は、しばしばいじめと相似的な、不当な非難と攻撃に道を開いてしまう。

悩ましいのは、「いじめ」を憎む気持ち自体はまったく正当なものであること、しかしまさにこの正当性の感覚に支えられて、しばしば事実に不釣り合いな糾弾の空気が醸し出されてしまうことだ。この難問に一義的な解答は存在しないけれど、最低限、事実関係の正確な確認と共有がなされるべきであるのは言うまでもない(いじめという難問をめぐる詳細は、「長い呪いのあとで…(4)」を参照)。

それだけに、小山田氏が昨年9月の「お詫びと経緯説明」において、深い反省を基調としながらも、事実とそうでない部分を腑分けし、報道被害の側面を明確に打ち出したのは誠実なことだったと思われるし、ファンたちが率先して事実の検証と共有を進め、彼のそうした姿勢が受け入れられる環境をつくり出していったのは称賛されるべきことだったと言える。

日本の夏の2大フェス出演を機に本稿を執筆中、インドネシアで11月に開催されるジョイランド・フェスティバルへのコーネリアスの出演が報じられた

さらに、本記事の公開準備に取りかかっていた9月18日、小山田氏はYMOやMETAFIVEの活動をともにしてきた高橋幸宏氏の音楽活動50周年ライブのアンコール時にゲスト出演。細野晴臣、高野寛両氏と3人でYMOの名曲「CUE」を披露、ギターとボーカルを務めた。

国内外で進む活動復帰の動きを喜びつつ、そして小山田氏の側の過失を真正面から見据えながらも、筆者としては、本件が報道のあり方も含め、社会全体の抱える難問があぶり出された出来事として記憶され、社会を生きる私たちの反省を促す契機となることを願っている。

文/片岡大右 写真/shutterstock 

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