ニュース、緊急地震速報、復興応援ソング……あらゆる震災の記憶がNG

「当初は頑張らなきゃと思ってボランティアなどいろいろやってたんですけど、そのツケが被災2週間後ぐらいにきたのか盲腸で1週間入院したんです。しかも、私は母が看護師で被災者の対応をしていたから、面会もできなくて……。

小児科の他の患者はお母さんと一緒なのに、私は夜も1人で、その1週間は結構しんどかったです」

この孤独こそ、PTSDの引き金となる。最初の症状は中学3年、震災を風化させないための総合授業であらわれた。

「防災ノートに震災の死者数や行方不明者数、けが人を棒グラフにしたものがあったんですが、それを見たときに、『あの入院中のつらかった経験って、こんな紙にパッと書かれちゃう数字の1つでしかないんだ』と自覚して、その瞬間にすごく気持ち悪くなっちゃったんです」

そこからスクールカウンセラーが週1でカウンセリングを行なうようになったが、症状は悪化。高校進学後は本格的にPTSDを自覚し、震災を想起させるものは次々と受けつけなくなった。

高校時代、比較的症状が落ち着いていたというころの宮原さん(写真/本人提供)
高校時代、比較的症状が落ち着いていたというころの宮原さん(写真/本人提供)

「それから避難訓練はずっと出てないし、防災授業も黙祷も参加してません。自分の中に何かトリガーがあり、勝手に涙が出たり過呼吸になったりするんです。

町のサイレンとかもダメで、公園で遊んでるときに鳴ると急に倒れたりしました。スマホの緊急地震速報もオフにしてるんですが、やっぱりオンの人が多いので、電車で一斉に鳴り響いて気分が悪くなり、倒れて駅員さんに救護してもらったこともあります。

復興を応援する歌も、いい曲なんだけど聴くとすごく気持ち悪くなるし、テレビも3月に入ったらニュース番組はつけないって決めてました。

大学で上京して1人暮らしを始めたときも、毎年この時期が怖いから、友人たちが3月5日から12日くらいは泊まりに来てくれてました」

大学時代、一緒に生活するなど助けてもらったという東北出身の友人と(写真/本人提供)
大学時代、一緒に生活するなど助けてもらったという東北出身の友人と(写真/本人提供)

寄り添ってくれる友人もいたが、ときには周囲から理解を得られずに苛まれることもあった。

「進学するにつれ同じ境遇の子が減っていき、震災の記憶を共有できる子がどんどんいなくなっていったんです。

高校が仙台育英というマンモス校で全国から生徒が来てたので、他県から来た子は私がちょっとした揺れでも怖がると、和ませるつもりとはいえ『大げさだよ!(笑)』って言ったり。進学してからは、上手に生活できなくなりましたね」

アイドルになってからも、PTSDの影響は続く。3月11日という大事な日でも、仕事を入れることができなかった。

「毎年3月11日は、ライブやレッスンを入れないでくださいとずっと断っていました。この日は外に出ると倒れたり泣いたりしちゃうので、人に迷惑をかけるのが怖かったんです」

同時に抱えていたのは“葛藤”だ。「“忘れてしまう”ことに対する恐怖がずっとある」と語る宮原さんは、薄れゆく記憶や自分が生きていることに罪悪感を覚えていたという。