どんなに言葉をつくっても

市の外れに住んでいた親族は家屋に大きな被害がなかったので、これらの人々や、市中心寄りの中学から逃げてきた生徒たちを何人も受け入れて看護した。

朝礼中、炎天下の運動場で被爆した生徒たちは顔も身体もパンパンに膨れ上がり、夜を越せた者はほとんどいなかった。死にざまは惨たらしく、敷布団の下の畳まで真っ黒になって臭いがとれないほどだった。しかし、我が子を捜しに来た父母は、見るも恐ろしい遺体を抱きしめて慟哭したという。

市東郊外の戸坂町、かつての戸坂村は村を挙げて被爆者の救護にあたった。村民が残した記録の中に「どんなに言葉をつくっても原爆の悲惨さは言い表せない」とあって、初めて読んだ時、私は「つくっても」は「尽くしても」の誤りであろうかと考えた。だが、そうではなかったのだろう。

親族や被爆者の証言を聞けば聞くほど、記録を読めば読むほど、きのこ雲の下がこの世の地獄と化して人々が惨たらしく害されたことが知れる。しかし、実相はそれ以上だったに違いない。たとえ言葉を「作れた」としても、とうてい表せない凄惨さだったということだ。

原爆ドーム (写真/Shutterstock)
原爆ドーム (写真/Shutterstock)

しかし、語り伝えることを私たちは諦めるわけにはいかない。

核兵器の恐ろしさは、一発で何万人も殺戮し街や市を壊滅させることだけではない。人間はおろか、国も大地も、山も海も、核物質に侵される。たとえ生き残ったとしても、もはや安全に生きていける場所はない。

そして、生きながら焼かれた後の苦痛、身体の内部まで貫いた放射線による病の数々。それらの被害は長く続くのである。被爆した人々だけではなく、被爆地を歩きまわった人々、さらにその子孫たちに現れる恐ろしい影響があるのだ。

放射線障害によって身体の深部まで冒され、DNAまでも傷つけられるからだ。まさに核物質は命を内部から朽ちさせるのである。身体だけではない。想像を絶する光景やあまりにも無惨な死にざまを目の当たりにして、心が死んでしまう人々もある。

被爆二世として私が実際に見てきたのは、小頭症の同級生、白血病で亡くなった親族や友人、体中を次から次へと癌に蝕まれた被爆者たちとその子どもたちである。一人娘を奪われて正気を失くしてしまった母親もいた。よく知られているように、原民喜(1905〜1951)も自死を選んだ。