核兵器使用の可能性をいとも簡単に口にする為政者
今日、世界を見ていて慄然とさせられるのは、核兵器使用の可能性をいとも簡単に口にする為政者や極右の人々が、いかなる理屈をもってしてか、自分たちを被害の圏外に置いているらしいことである。確たる安全性を担保せぬまま原発を推進しようとする人々も同様だ。
原子力と人類は共存できない。もしも再び核兵器が使用されることがあれば、誰一人その被害からは逃れられない──その厳然たる事実を彼らは認識していないのである。
原爆投下や原発事故の実相から目を背けず、被爆や被曝のもたらした恐ろしい結果を自分事として捉えるならば、核兵器使用などは考えもしないはずなのだ。「核の平和利用」などという聞こえのよい言葉にもごまかされないだろう。
2025年現在、日本という小さな国に原発は(廃炉確定24基、建設中3基を含め)60基ある。地震は頻発している。遠い国で起きた地震によって押し寄せる津波もある。フクシマは容易にまた繰り返される可能性があるということなのだ。
さらに、原発について懸念されるのは事故だけではない、攻撃にさらされる危険性もある。これらを真剣に踏まえれば、現状のままの原発回帰などありえないだろう。
2011年の原発事故後、海外出張の先々で、慰めの言葉と共に被害について熱心に問われたのを思い出す。フクシマを教訓として脱原発に舵を切った国も多い中で、今また日本が後ろ向きに発進しようとしているのはなぜなのか……。唯一の被爆国でありながら核兵器禁止条約を批准できないことと同じ構図に見えてならない。
戦後80年に実施されたアメリカの世論調査において「原爆投下は正当化されるか」という問いがあった。「正当化されない」と答えたのは全体の31パーセントで、肯定派の35パーセントには及ばなかったものの、18〜29歳の年齢層では否定派が44パーセントに上っている。
ノーベル平和賞を受賞したICANや被団協の長年にわたる活動や発信に加え、オリバー・ストーン監督らの作品などさまざまなジャンルからの発信によって、被爆の実相、核兵器使用の非人道性が伝わりつつあるということなのだろう。
児童文学だが、拙著『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年)の英語版“Soul Lanterns”(Penguin Random House,2021)が刊行されると、アメリカの書評サイトに驚くほどたくさんの感想がアップされた。多くが同じことを書いていて、それにも驚かされた。
すなわち「自分たちはこのようなことは知らなかった」「自分たちはこのようなことは学校では教わらなかった」と。「このようなこと」というのはヒロシマのあの日と、その後に長く続く苦しみのことである。
細々とでも発信することには意味があると感じさせられた反響だった。核兵器や原発についての意識を変えていくためには、まずは「負の記憶」を語り伝えなければならない。言うまでもないことだが、「原爆文学」は日本にしかないのである。













