「他力本願」の本当の意味

柳宗悦がその著作群で論じた内容は、正直に告白すれば、僕にはかなり難しいことも多かった。もしかしたら読者のみなさんも、退屈で寝てしまうような文章と感じる方がいるかもしれない。

ただ、自分なりに理解していくうちに、そこには現代を生きる自分たちにとって大事なことが書かれており、かつ、そのポイントはいくつかに絞られるように思えてきた。なかでも僕がいまの時代に最も大事だろうと思ったことは「他力本願」という考え方だ。

柳は民藝の美しさの本質を追求するなかで、そこに仏教思想とのつながりを見出した。この「信と美」の関係を考察するなかで、晩年に「他力」の道から生まれる美しさを強調している。いま改めてこの時代から見ると、とても先見的なことだったのではと思う。

「他力本願」というと、現代人は「他人まかせ」というネガティブなワードとしてとらえがちだが、もとの仏教用語としては「阿弥陀如来の慈悲の力により成仏する」という意味になる。

つまり仏様の力=僕ら人間よりもずっと大きな力が、生きとし生けるものを救い、世の中を良くするという大儀を伝える言葉だ。そして救われる側に立てば、仏の願いに活かされ、力強く生き抜くことを語った言葉だとも思う。柳が無名の職人たちによる日用雑器に見出した美しさの根底には、この他力の思想があるのではないかという。

なお、民藝は無名の職人・工人たちの手しごとの美を評価したが、作家として世の中で評価されるような存在と完全に分断されていたわけでもない。

濱田庄司や河井寛次郎という、いずれも優れた陶芸家が柳とともに民藝運動の中心にいたし、いまも国際的に高い評価を受ける版画家の棟方志功(1903〜1975年)は柳を師と仰ぎ、長く交流もあったという。柳も棟方のしごとを「何か自分以上の力が背後にあつて、それが仕事をさせてゐるのを感じてゐるのです」(「棟方と私」『柳宗悦全集著作篇第十四巻』筑摩書房、1982年)と評した。これもまた「他力」の道に通じる、柳からの賛辞だったといえるだろう。

この「他力」を僕なりに伝統工藝に当てはめて解釈すると、ここでの自分たちよりずっと大きな存在や力とは、一つには偉大な自然の力だろう。それは土や木などの自然素材に加え、製作に必要な火、水、日光などの力をも含む。

写真はイメージです 写真/Shutterstock
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さらに、気が遠くなるほど長い年月をかけて育まれてきた先達の営み(いい換えれば伝統)の力もそこに加わる。そうした力に、ある意味では身を委ねながら美を生み出していくのが、伝統工藝ではないだろうか。

こう考えると、工藝にかかわらず伝統というのは、僕らが自分たちよりずっと大きな巨人の肩に立たせてもらいながら、自分たちの新たな景色をつくっていく営みではないだろうか。

余談になるが、実はこの「他力」という考え方について、頭では理解しているつもりだったが、得度を経て初めて、身をもってその力を感じる経験をした。袈裟をまといインドを歩いていると、いろんな人たちが声をかけてくれて、お布施(お金)をくださることも少なくない。

経済的には日本人の僕よりもはるかに厳しい暮らしをしている人たちからお金をいただくのは、正直、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

その思いを佐々井秀嶺上人に伝えたところ、「我がある!」と𠮟られてしまった。「皆はお前にお布施をしているのではない。これまでこの場所を良くしてきた仏教にお布施をしているのだ。お前はただの仏像だ!」。そういわれて、初めて自分の背後にある大きな存在を、肌で感じることができた。