二次情報はなぜ危険か
対象がテレビのバラエティ番組ならまだいい。これが政治や経済、社会に影響を与える、ある程度硬派な内容で、それが二次情報だけで作られた記事だったとしたら、問題は変わってくる。
新聞やテレビといった既存のメディアがこのまま衰退して存在しなくなれば、ネットのプラットフォーム上に並ぶ記事の多くは、二次情報のものだらけということになるからだ。あるいは、一次情報がなくなることで、二次情報かどうかすら定かでない、どこで誰が言ったかあやふやな内容の記事があふれることになる。
これの何が問題なのか、もう少し詳しく説明したい。
取材で得た一次情報の中には、真実でないものもある。このため報道機関はその一次情報が真実であることを裏付ける情報を最大限探し、クロスチェック(二つ以上の資料や方法を用いてチェックすること)をした上で記事を出している。
結果として真実でなかった記事が含まれることもあるが、共同通信として配信したという記録は残るため、その場合、読者は「あの記事に書かれていることは間違いだった」と判断することができる。
一次情報の重要な点は、後で検証できる、トレースが可能なところにもある(こうした場合、報道機関はなぜ間違ったのかを検証した記事を出すため、読者はどの情報源から虚偽の情報を得ていたのかも知ることができる)。
ところが、二次情報だけでできている記事は、要は「又聞き」のため、ニュースソースが不明確で、何が真実で何が虚偽なのかがはっきりしない。その結果、書かれていることの何を信じていいのかが分からなくなる。
インターネット上のプラットフォームに並ぶ記事を日頃見ている私の印象にすぎないが、一次情報から成る記事は、今も大半が新聞やテレビ、雑誌といった既存のメディアが提供している。
一方で、ブログやSNSなどインターネット上で政治や経済、社会を論じているネットサロンの著名人やインフルエンサーが配信している内容の出所は、既存のメディアが作った記事を元にした二次情報ということが多く、自分で取材した内容がどの程度入っているかははっきりしない。
インターネットの発達により、誰もが情報発信できる世界になったことの利点は確かに大きい。それ以前は、発信を担うことができたのは既存のメディアだけだった。その状況が変わったことによって、世界中のあらゆる情報をスマートフォンという手のひらの上のツールで見聞きすることが可能になった。
ただし、その結果、あらゆる情報において、それが真実なのかフェイクなのか分からなくなる恐れが以前より格段に大きくなった。フェイクを防ぐ、あるいはフェイクであることを確認するには、一次情報によって発信し続けるメディアの存在が欠かせない。
こう言うと、中には「大手メディアや新聞がなくなっても、フリージャーナリストがやればいいじゃないか」と考える人がいるかもしれない。組織に属さず、自分の力で情報発信を続けるフリージャーナリストの存在意義は確かに大きい。
しかし、個々のジャーナリストはそれぞれ得意分野が違っており、世界のさまざまな情報を網羅的に、一定の信用性を持たせて報じることには限界がある。ジャーナリストも玉石混淆であり、ジャンルごとに誰が信用できるかを読者が一人一人識別していくことは現実的とは言えない。
あるいはフリージャーナリストが連合体のような形を取ったとしたらどうだろうか。それでも難しいと言える。
その理由は、ジャーナリスト個々人が、自分が不得手な分野の取材に取り組むほかのジャーナリストの記事に、責任を持てるわけではないから。反対に考えて、責任を持てるほどの連合体として情報を精査することができるのであれば、それは組織ジャーナリズムであり、既存のメディアとなんら変わらないことになる。