「最初はイノシシかなって思ったんですよ」
関東平野の北端に位置する群馬県沼田市佐山町。南方には群馬のシンボルである上毛三山の一つ、標高1828mの赤城山がそびえ、北東には標高2144mの皇海山や、標高1878mの袈裟丸山など関東山地の山並みが連なる。古くから水と緑に恵まれた静かな里山だ。
そんな土地に、かつて人知れず暮らしていたものがいた。ツキノワグマ――本州を中心に生息するこのクマは、昔は人里に積極的に姿を現すことはなかった。だが近年、そんな常識が揺らぎはじめている。
それは、2022(令和4)年9月上旬の、まだ夏の名残を引きずる陽気の午後だった。
「天気もよくて暑かったよ。午後2時くらいだったかな。釣りに行ったんだ、いつも行ってるあの渓流。イワナがよく釣れるお気に入りのポイントがあるんだ。もう年中通ってた」
そう語るのは、沼田市に生まれ育ち、渓流釣りを長年の趣味とする金井誠一さん(当時72歳)。この日も、利根川の支流である四釜川のすぐ脇を走る農道に車を停めて道具を取り出し、静かに準備を始めた。
釣り場までの距離はわずか5mほど。見通しは悪く、藪や雑木林が密集する。かつては気軽に入れたこの渓流も、今では産業廃棄物処理場が造成され、立ち入りが制限されている。
そのときだった。視界の端で何かが動いた。低く、黒い影が一瞬だけ走ったようだ。動物だ。だがそれが何かまでは、すぐには判別できなかった。
「最初はイノシシかなって思ったんですよ。1m50cmくらいあって、結構でっけぇなとは思ったけど」
音も気配もなく背後からの不意打ち
その影は、藪の中へと姿を消し、斜面を上がっていった。普通ならそこで警戒心が働いてもおかしくない。しかし、日常の延長にあった“いつもの釣り場”という安心感が、わずかでも判断を鈍らせたのかもしれない。金井さんは、気にせずそのまま釣りを始めた。
しかしこの日は釣果がなく10分ほどで竿を納めた。「いつも、釣れなかったらすぐ引き上げる」とこの日も車へ戻り、トランクを開けたその瞬間だった。
「真後ろからガバッとやられたんだ。声なんか聞こえなかったよ。音もにおいもない。本当にいきなりだった。でもやられた瞬間に『クマだ!』と思ったな」
それは、本当に突然だった。直前に目撃していた“黒い影”が再び姿を現し、襲いかかってきたのだ。
クマを目撃または接触した人の中には、「鼻を突くような、強烈な獣のにおいが漂っていた」と証言する人もいる。鼻腔の奥にまとわりつくような異臭だ。しかし、金井さんは「変わったにおいはしなかったと思う」と話す。
また、クマは体重100kg前後の巨体でありながら、森林の中では驚くほど静かに移動することができる。脚の裏に脂肪が多く、接地音が少ないためだ。そのため音を立てることなく金井さんとの距離を縮めてきたのだろう。
背後から突然、鋭い爪が振り下ろされ、右側の頭部と眉上が切り裂かれた。一瞬にして、大量の血が噴き出した。キャップをかぶっていたことが衝撃を少し和らげたのかもしれないが、あと数㎝ずれていれば、目を直撃していた可能性もあった。
一撃を受けたあと、金井さんは反射的に振り返ったが、そこにはもう姿はなかったという。それでも金井さんは、「クマだった」と確信している。
「でけぇ爪だよ、皮膚があんな裂け方するのは。爪の痕も角度も位置も、手でやられたって感じだったな。あれはクマしかいねぇべ」
確かに、クマが立ち上がれば身長165㎝の金井さんの頭部を攻撃できるくらいの高さにはなる。イノシシには無理だろう。そして、何より彼をそう断言させるのは、地元での長年の感覚だった。
「昔からこのあたりは“クマの本場”みたいなところで、クマは身近な存在ともいえる。遠目に見たことは何回もあるよ。だけど実際に接触したのは今回が初めてだ。興奮してたんだべな。自分がどれだけ出血してるかも分かんなかった」
襲撃された後、意識はしっかりしていたが、痛みはさほど感じなかったという。その場に倒れることもなく、金井さんはタオルで傷口を押さえながら車に乗り込み、自らハンドルを握ってその場を離れた。