デビュー曲の歌詞に「なんか恥ずかしいな」
デビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」は30万枚を超える大ヒット。翌1982年には『第24回日本レコード大賞』新人賞を受賞するなど、松本は華々しいスタートを切った。
――松本さんはデビュー曲からヒットするという、芸能界で最高のスタートを切られましたが、逆にそれはプレッシャーにもなったのではないかと想像します。
最初にこの曲に出会ったときは、湯川れい子先生の歌詞を見た時でした。いい歌詞と思いつつ、「名前と16歳って入ってる。なんか恥ずかしいな」っていう気持ちもちょっとありました。でも、筒美京平先生のピアノに合わせて歌うと、すごく素敵なメロディーと歌詞がすんなり入って。「素敵な曲をいただけたな」っていう気持ちの方が大きくなりました。
ただ、「これが売れないと大変だな」っていう風にはだんだん思って。なぜなら、大人の人たちがすごく力を入れて頑張ってくれていたので、「これが売れなかったら私のせい」「これが売れなかったら、1曲とか2曲とかで終わっちゃうかも」という風に思っていたんです。だから、売れて本当によかったと思いました。
――松本さんにとって「センチメンタル・ジャーニー」はどのような存在ですか。
昔からインタビューなどで、「何歳になっても『16だから』って歌っていくんですか?」とよく聞かれていて、「歌っていくに決まってる」と思っていたんですけど、18歳ぐらいになると、自分も少し大人になって、「もう少し大人っぽい歌を歌いたい」って思うようになった時期もあったんです。
18歳から20歳の頃は、「ちょっと『センチメンタル・ジャーニー』はつらいな」と、思う時もありました。そう思いながらも歌ってましたけど。
今でも反省しているんですけど、多分20歳の頃は、コンサートでも歌ってなくて。その時に来てくださったお客様は、多分「センチメンタル・ジャーニー」を聞きたかったはずなのに、全くヒット曲を歌わずにアルバムの曲だけ歌って、「皆さんさよなら」と去っていくみたいな時期が2年ぐらいあったのかな。
――それを乗り越えたのはいつ頃ですか。
それはね、だいぶ遅いんです。結婚してからですね。
家でテレビを見ていた時に、大先輩の方が自分の代表曲を歌っていらして。その姿を見て、「こういう風に自分のヒット曲を歌うことって大事なんじゃないか」と、ちょっと客観的に見ることができて。私も今度お話が来たら絶対に歌おうって思えるようになりました。
ヒロミさんからも「なんでいい曲があるのに歌わないの」って、結婚当初から言われてました。例えば、バラエティ番組で「センチメンタル・ジャーニー」を歌うのはいやだとかわがままを言うと、「歌えばいいじゃん。そんな美味しい話ある?」みたいに。