改めて「普遍主義」の意味を問う
李 そうですね。欧米を追いかけなくても、我々には我々の思想があります。ただ日本の哲学や思想ってちょっと危険、と言ったら研究者の方に失礼かもしれないですけど、戦時中に大東亜共栄圏の構想を肯定するために使われた歴史があります。そういう危険性ももちろんあるんですけども、でもそれだけではなくて、先ほども述べたような「日本のPlurality(プルラリティ)」といえる思想や文化が、ささやかながら存在しています。
三牧 私も、そもそも研究者を志した頃は、戦前日本の知識人の平和観を研究していました。1930年代に首相を務めることになる近衛文麿が、第一次大戦後のパリ講和会議が間近に迫る中で執筆した「英米本位の平和主義を排す」という論文があります。
国際平和の実現を掲げて、史上初の普遍的な国際組織として国際連盟が、当時のアメリカ大統領のウッドロー・ウィルソンが中心となって、欧米主導でつくられたけれど、日本人としては、欧米が唱道する「普遍」や「平和」を鵜呑みにして、そのまま賛同することはできない、そう近衛は警告しています。
実際、国際連盟の規約を見ると「人種平等」も書いていないし、欧米が植民地を支配している状況も追認している。「日本人は、欧米が掲げている普遍主義が実は御都合主義であるところを見抜いて、日本人の立場から、どのような普遍主義を求めるかを発信しなければいけない」といった趣旨のことを、近衛文麿は言っている。その思考の型がすごく面白いと思ったんです。
その後アメリカ研究を始めてからも、この視座は生きていて、アメリカ人が語る「普遍」を批判的に研究してきました。アメリカは普遍的な理念を語るのが大好きなんですけども、往々にしてそこには非欧米世界は含まれていない。
アメリカの歴史というのは、普遍的な理念をずっと語っていたけれど、そこに含まれていない人がたくさんいて、「女性が入っていないではないか」ということで女性参政権の運動が起こり、「黒人が入っていないではないか」ということで公民権運動が起き、常に「普遍」の内容を更新してきた。
しかし、国際社会については、こうした「普遍」の更新は停滞している。「法の支配」や「人権」を掲げていても、アフガニスタンやガザのように、欧米によって、あるいは欧米に幇助された存在によって「法の支配」も人権も踏みにじられている国・地域がたくさんある。いよいよ欧米が語る「普遍」の欺瞞が誰の目にも明らかになる今、それでも普遍的な理念を手放さないために、異なるアプローチが必要になっているように思います。
今回、『PLURALITY』を書くにあたって、タンさんはそのような欧米の状況に対するカウンターとして書いたのかどうか。私は、反欧米、といった要素はあまり感じずに、純粋に普遍的な価値を探究しているような印象を受けたのですが、そのあたりはいかがですか?
李 やはり対欧米というよりは、独自の価値観を見出そうとして書いたのだと思います。というのも『PLURALITY』の最後のあたりに、これから我々が学ぶべき文化として、「アメリカ、EU、中国」と三つの異なる文化圏を併記しているんです。「Pluralityは、これらの国々・地域の達成から謙虚に学んでいける」というふうに。だから何かに対するカウンターというより、多元的に学んで、独自の価値を出していこうとする試みだと思います。
オードリー・タンさんのポジションってかなり微妙というか、薄氷を踏むように、中国というまさに今迫っている脅威に備えつつ、下手に刺激しないように、オープンで人々が協働する民主主義を広めていこうとしている。それはものすごく神経を使う作業で、本当に慎重に言葉を選びながら、人々をエンパワメントしていく感じだと思います。
もう一人の著者のE・グレン・ワイルさんは、もうはっきりと「今や欧米はビジョンを世界に提示できていない」と言っています。そして僕たちに対するリップサービスだと思うんですけど、「これからは日本みたいな国が、欧米的な民主主義とは違う民主主義のビジョンを生み出していってほしい」と言っていました。半分はリップサービスだとしても、模倣するだけではない民主主義を、自分たちで目指さなければいけないことは確かです。
構成/高山リョウ 撮影/内藤サトル















