「やってみた」ができるかどうか
廣田 花子さんについては、気軽に試せるというのも大きかった。3回ノックして、あるいは3回まわって「花子さん」と言うのは、すごく簡単にできる。その試しやすさが広まる要因となった。
例えばホラー漫画雑誌『ホラーハウス』87年9月号には既に「私の学校で、〝はなこ〟さんをやってみましたが…ダメでしたっ」という読者投稿が載っていたりする。この人はやってみた、じゃあうちの学校だとどうなのか、というフィードバックもあったのでしょうね。
吉田 学校の怪談全般に言えることですが、廣田さんが『ネット怪談の民俗学』で触れているオステンション(再現行為)が顕著な気がします。何々をする、何回叩いてみるとか、何回これやってみるとか、何時にここに行くとか、そういう限定した条件で発動する怪談がとても多いじゃないですか。
廣田 伊藤龍平さんが2021年に「口裂け女は話されたか─「俗信」と「説話」─」という論文を書かれています。「説話」とは、今の文脈で言えば「怪談」のこと。「お話」なのか、それとも「俗信」のような知識なのかということですね。
学校の怪談も同じです。怪談というのは、過去にあった出来事について言葉で表現したものといったイメージ。俗信というのは、今でもできること、無時間的なんです。トイレを3回叩くと花子さんが出てくるというのは、別に物語ではなくて、あくまでそういう仕組みなのだということです。学校の怪談って、実は説話よりもこうした俗信、知識のほうが多いのではないかと思います。常光さんの『学校の怪談』シリーズでは、そういった俗信を怪談にまとめて、物語にしている。ただ巻末にある読者投稿欄には、ストーリーになっていない俗信的なものも多い。
オステンションというのは、そういう俗信があるからこそできるものである。俗信から説話、物語が作られていく、というパターンではあるんです。だから話を根本からひっくり返すようですけれども、そもそも「学校の怪談」というのは怪談なのか、ということなんですよね。
ただ、だからこそ世間に広まったとも考えられる。単なる噂があちこちにあるだけじゃなく、実際に自分たちでやってみることができる。コックリさんもそうですが、実際にやってみた人たち、おそらく全国にたくさんいるその人たちは、そこでもうその怪談の一部になれるじゃないですか。広い意味での遊びですが、怖いことを遊びでやる。そうした点が広まりやすい要因になっていたと思います。
吉田 確かに、物語と自分が当事者になる行為というのは違いますね。物語はあくまで享受するものですけど、自分もその行為をした当事者になるというのは、体験としてのインパクトがある。カシマさんなどの感染系にもそういった要素がありますね。
現代の子どもたちにも花子さんが残っているのは、そこが大きな理由だと思います。70年代の雑誌などでは、便所がどんどん汲み取りから水洗になっているので便所怪談はなくなるのでは、と大人たちが語っている。現代の学校のトイレはさらに明るくて清潔になっているので、怪談にふさわしい雰囲気ではなくなっている。
でもそういう怪談的怖さとは別に、花子さんは子どもたちのコミュニケーションのためのツールとして使われている。複数人でトイレに行き、扉をノックして「花子さん」と呼びかける儀式が、子どもたちの結束を固めるために行われている。いまだに小学生のあいだで、花子さんは生き残っていますからね。
廣田 そういう意味では、かなり長寿の伝承です。たぶん日本史上でも、ここまでずっと全国区の妖怪伝承が続いているのは珍しいですよ。
後編に続く

廣田龍平
1983年生まれ。大東文化大学助教。専攻は文化人類学、民俗学。博士(文学)。昨年夏に刊行された『ネット怪談の民俗学』は7刷2万部超のロングセラーとなっている。
対談の全文はぜひ書籍『よみがえる「学校の怪談」』にてお楽しみください!
恐怖が生まれ増殖する場所は、いつも「学校」だった――。
繰り返しながら進化する「学校の怪談」をめぐる論考集。
90年代にシリーズの刊行が始まり、一躍ベストセラーとなった『学校の怪談』。
コミカライズやアニメ化、映画化を経て、無数の学校の怪談が社会へと広がっていった。
ブームから30年、その血脈は日本のホラーシーンにどのように受け継がれているのか。
学校は、子どもたちは、今どのように語りの場を形成しているのか。
教育学、民俗学、漫画、文芸……あらゆる視点から「学校の怪談」を再照射する一冊。
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撮影/齋藤晴香
※「よみタイ」2025年7月12日配信記事