「大人は何かを隠している」という世界観
吉田悠軌(以下、吉田) 「学校の怪談」というのは90年代からの言い方で、80年代以前は「学園七不思議」といった言葉をよく使っていました。お二人も文庫版の解説でそう呼んでいます。子どもたちはどんどん新陳代謝して6年で学校を卒業していくけれど、学校自体は50年や100年以上残っているところも珍しくない。七不思議というのは、その縦軸の歴史で残されているものなんですよね。学校という同じ空間で同じ話が継承されていく、それが七不思議。
真倉翔(以下、真倉) そうですね。子どもたちはどんどん入れ替わっていくけど、同じ怪談を知っている。
吉田 各世代の子どもたちは新入りの立場でそれを初めて知っていく。ただその中で、教師たち大人は既に知っていますよね。特に校長先生になると、ずっとその歴史を把握している。
『ぬ~べ~』では、ぬ~べ~や校長先生などはこの学校にどんな怪談があるか知っている。子どもたち視点で見たら、どうやら大人は何か知っているようだけど、自分たちに隠しているんじゃないかという怖さに繋がる。そういった怖さや不安については、当時の「学校の怪談」コンテンツの中でも、『ぬ~べ~』が一番ビビッドに描いているなと思います。
真倉 子どもから見ると「大人って、本当のことを言ってないかもしれない」みたいな回がけっこうありますね。
吉田 話の前半のほうでは、ぬ~べ~が何かを知っているけど隠している、あるいは、もしかしたら自分たちを害する存在なんじゃないか、みたいな匂わせがある。もちろん、後半ではそうではないってことがわかるんですが。それが怪談の怖さを引き立てていたと思うんですよね。
真倉 子どもにとって、見知らぬ大人の怖さっていうのが、やっぱり最初のうちはあると思うんですよ。それは「怪人A」(24話)が顕著で、大人だけが隠しごとをしているという話。
吉田 あれは子ども心に読んでいて怖かったですよ。学校どころか、町じゅうの大人みんなが隠しごとをしている。
真倉 昔もそういうことなかったですか。町側が秘密を隠している、みたいな。
岡野剛(以下、岡野) 口裂け女は、まさにそうでしたね。私が小学6年生の時、1979年ですね。あの時は本当にもう学校中がパニックになって、集団下校していました。『ぬ~べ~』と同じように、低学年の子たちが泣いちゃって、先生方が一生懸命なだめていたり。
吉田 お二人の口裂け女の原体験が、「怪人A」の町の雰囲気に、影響しているのかもしれませんね。「百物語」(100話)の回はまさに、ぬ~べ~が子どもたちに害をなす存在だったというドンデン返しがありました。もちろん真相は妖怪が化けていたんですけど。
真倉 あの回は今までできなかった、ぶちっと切る怪談を寄せ集めた回でもありますね。郷子が市松人形を見てびっくりしたところで終わってもいい。ちなみに、ダイバーが溺れ死ぬ話が出てくるんですけど、ダイバーの顔が俺なんですよ。
岡野 ちょうどその頃、真倉先生がダイビングやってると言っていたから、髪型も似せて描きました。
真倉 やめてよ。ダイビングやるの怖くなっちゃうよ(笑)。
吉田 ぬ~べ~が邪悪な存在なんじゃないかと思ったら実際そうだった、という極端なパターンですね。百物語だし、怪談的な方向に振り切った回かと思います。全体の基本設定として、主人公は大人のぬ~べ~なんだけど、視点はいつも子ども。この構造の妙があったのかなと思いますけど。
真倉 構造というところまでは論理立てて考えてなかったけど、そういう形はできていますよね。ぬ~べ~が必ず守ってくれると思っているけど、案外頼りないから、生徒も怖がってしまう。
吉田 頼りなくて負けちゃう面もあるし、自分たちに何か隠していたり、下手したら敵対する存在なんじゃないのっていう怖さが滲んでいる。でもそれは、絶対的に守ってくれる存在だという前提があればこそ、その怖さが出てくるんですよね。もともと先生と生徒が対立していたら、そうした不安や恐怖は生まれないので。
90年代末、時代の激動の中で
吉田 連載当時の社会状況として、95年には阪神・淡路大震災があり、オウム事件からのオカルトバッシングがありました。私は子どもでしたが、当時の空気感を覚えています。あるいは97年になると、酒鬼薔薇事件が起きて、少年に悪影響を与えるコンテンツは良くないのではないかという流れもありました。そうした状況は執筆時に影響がありましたか?
岡野 オウム事件、酒鬼薔薇事件のあった時には、友人には「大丈夫なの?」と心配されましたけど。編集部からは全然何も言われなかったよね。
真倉 残酷表現への規制はありましたけど、妖怪であればOKらしいんですよ。人間だったらダメだけど、妖怪だったら人型をしてても問題ないらしい。だから毎回、鬼の手で握りつぶしていましたし。それよりお色気表現への規制のほうが多かったので。
岡野 時代の変化っていう意味では、真倉さんが一番凹んでいたのは、学級崩壊ですよね。学級崩壊が話題になった頃に「こんな、先生が生徒たちに好かれるヒーローみたいな漫画なんて、うそ臭いよね」みたいなことをぼやいてましたよ。
真倉 ぼやいてた? いつぐらいだろう。
岡野 90年代の終わりのほうだと思いますけど。私もそっちのほうがショックでしたね。
吉田 90年代後半に、新聞やテレビなど、社会的に学級崩壊が大きく取り上げられるようになりました。それが『ぬ~べ~』にとって、怪談とはまた別のテーマとして危機感があったという。
真倉 「頼りになる先生」なんていうのは、架空じゃないですか。でも描き始めた頃は、それでもリアリティがあったよね。まだ先生が親みたいに強く注意できたし。廊下に立たせたりするシーンも『ドラえもん』にだってあるわけだし。今はコンプライアンスを気にして、体罰なんて絶対できないけど。ぬ~べ~なんてよく殴るから、今読むと、すごく悪い先生だよね(笑)。
吉田 そんなによく殴ってた印象はないですけどね。ギャグシーンだからというタッチや演出もあるからかもしれないですけど。真倉先生としては学級崩壊のニュースはかなりショックであったと。
真倉 もうその時期には、『ぬ~べ~』も連載終盤で、連続バトルの展開になっていたから。『ぬ~べ~』が終わってから、さらに教育現場のコンプライアンスが厳しくなりましたね。もう本当に生徒をこつんともできないし、廊下に立たせるなんて、もってのほか。
吉田 ぬ~べ~の始まりと終わりが、社会の情勢とリンクしていたところもあったのかもしれないですね。もちろん意図的なものではないでしょうけど。続くシリーズとなる『ぬ~べ~NEO』のほうでは、そういった学級崩壊している状況で、どう頑張っていくのかという物語を描いてますよね。