淡々とした空気が生まれた最大の要因

久次米氏が誰かに惹かれて葛藤する「追う側」にまわる場面は、7話までほとんどなかった。視聴者が心を動かされるのは、バチェラーが本気で心を奪われ、自信を失い、迷い、決断する過程にある。そこに人間らしさが宿り、恋愛番組としてのリアリティが生まれる。

しかし今作では、そうした感情のうねりや変化が乏しかった。久次米氏は終始淡々とジャッジを続け、参加者たちも自らを“選んでもらう”ことに終始していた。この圧倒的な上下関係は、バチェラーと参加者のあいだに絆を生む可能性すらも奪っていた。

その結果、誰かを落とすときに葛藤し、涙を見せる場面すら生まれなかった。

ドラマが生まれなかったバチェラー6(「バチェラー・ジャパン」シーズン6のリリースより)
ドラマが生まれなかったバチェラー6(「バチェラー・ジャパン」シーズン6のリリースより)

こうして参加者だけでなく、バチェラー自身にも明確な「成長」の物語は生まれなかった。シリーズの魅力は、恋愛を通じて人間関係が変化し、登場人物たちが何かを得て変わっていく姿にある。だが今回は、その核となる“関係性のドラマ”自体が存在しなかった。

まるで就職面接のように、候補者を評価し、静かに落としていく――。恋愛よりも「選考」に近い、温かみに欠ける空気が画面に流れていた。

その意味でシーズン6は、「炎上もせず、波風も立たず、恋も盛り上がらず」、整いすぎたがゆえに、ともすれば“何も残らない”と感じさせるシリーズとなった。

バチェラーは、恋愛を扱うと同時に“番組”というエンタメ作品でもある。リスクをはらんだ“むきだしの感情”があってこそ、フィクションを超えるリアリティが生まれるはずだ。

番組が再び信頼を取り戻すために必要なことは、無難な整合性を求めることではなく、“炎上も含めて愛される”覚悟なのかもしれない。

取材・文/ライター神山