炎上回避で刺激がなくなったリアリティーショー

こうしたドラマ性のなさを、出演者たちのせいだけにするのは早計かもしれない。もう一つの要因として浮かび上がるのが、制作側の“演出の自粛”だ。

近年、恋愛リアリティショーを取り巻く環境は厳しさを増している。編集によって出演者が誹謗中傷の的となり、最悪の事態を招くケースも現実に起きている。そうした背景から、制作側が過激な演出を避ける傾向にあるのは理解できる。

とはいえ、今作の編集はあまりに抑制的だった。誰にもスポットが当たらず、淡々とシーンが積み重ねられていくだけ。視聴者は「誰の物語として見るべきか」が分からず、感情の軸を持てないまま時間が過ぎていった。

MC陣のコメントも一様に穏やかで、刺激に欠ける。ドラマ的な“山場”も“炎上回”も用意されておらず、緊張感もカタルシスも感じられない。かつてのシリーズにあったような“乗り越えるべき壁”が、今回は存在しなかったのだ。

MCの“毒”も足りない?(「バチェラー・ジャパン」シーズン6のリリースより)
MCの“毒”も足りない?(「バチェラー・ジャパン」シーズン6のリリースより)

だが今作は、どのように編集しても盛り上がらなかったかもしれない。それが三つ目の要因、そして最も根本的な問題「バチェラーがあまりにも優位すぎた」という構造だ。

今作では、女性たちは「久次米一輝がバチェラーである」と知ったうえで参加している。シリーズでは、バチェラーの事前公開があるパターンと、そうでないパターンがある。

事前公開のメリットは、参加者が本気で“彼を落としにいく”姿勢を持てる点にある。過去には、バチェラーやバチェロレッテ(男女逆転版)に恋することができず、リタイアしたり、熱意に欠けたまま過ごす参加者もいた。その反省を踏まえ、今回は「本気で結ばれたい人」だけを集めた、という制作側の意図は理解できる。

だがその結果、物語は「一方的に追う女性たち」と「選ぶバチェラー」という固定された構図から一度も外れることがなかった。

バチェラーに疑念を抱く者も、翻弄する者もいない。久次米氏は終始、参加者女性にアイドルのように持ち上げられ、明確な上下関係のなかで“選ぶ側”に徹していた。その構図はまるで就活の面接官と応募者のようで、恋愛というよりも“選考会”のような空気が漂っていた。