『ゴッドファーザー』は「ファミリー」の物語である
ヴィトー・コルレオーネは個人的な感情によっては動かない。個人的な利害得失によっても動かない。彼が従うのはシチリアでの少年期においてすでに深く内面化した「掟」だけである。だから、彼は家族に理解も共感も求めない。
彼が「これから家族の復讐にシチリアにでかけようと思う。みんな殺されるかも知れないが、オレの気持ちをわかってくれ」というようなことを妻や子どもたちに言って同意形成をはかったということはなかったはずである。
「オレの気持ちをわかってくれ」というような訴えをたぶんヴィトーは生涯誰に対しても一度もしたことがないのだと思う。そして、まことに逆説的なことではあるが、家族に理解も共感も求めない男によってこの家族は最も強く結束されていたのである。
マイケルはこの父と逆の生き方を選んだ。彼は(物語の冒頭で海軍に志願するときから、最後まで絶えず)家族に「オレの気持ちをわかってくれ」と懇願し続けた。そして家族の誰もが「オレの気持ち」をほんとうにはわかってくれないことを悲しみ、恨み、それゆえ家族に無意識のうちにつらく当たり続けて、ついに家族をすべて失う。
『ゴッドファーザー』は「ファミリー」の物語である。そして、一代にしてニューヨーク最大の「ファミリー」を形成したヴィトー・コルレオーネが教えたのは、家族を堅牢なものとして保ちたいと望むなら、家族を理解と共感の上に基礎づけるべきではないということであった。
家族は(それ自体どれほど不条理なものであっても)揺るぎない「掟」の上に構築しなければならない。
その「掟」が守るだけの価値があるものであるかどうかは、その「掟」のために命をかけることのできる人間が、自分の生命によって債務保証するしかない。
ことの順逆が狂っているように聞こえるかも知れないが、そうなのだ。そのために死ぬことができると宣言する人間がいることによってはじめて「掟」は機能する。
ヴィトーにとって男とは「家族のために死ぬことができる人間」のことである。そのおごそかな誓言によって彼は家族を結束させる家父長であり得たのである。
だが、マイケルは最後に家族のうちで彼一人が生き残ったことから知れるように、結果的には(本人はまことに不本意であろうが)「自分のために家族を殺すことができる人間」であった。だから、マイケルの家族は解体する他なかったのである。
『ゴッドファーザー』から学んだ教訓は一つではないが、これはそのうちで最も深く身に浸みる教訓であった。
文/内田樹