家族形成における“掟”

このマイケルの悲劇的な「家族解体のドラマ」に対旋律のように絡みつくのが『ゴッドファーザー パートⅡ』におけるヴィトー・コルレオーネ(ロバート・デ・ニーロ)による「家族形成のドラマ」である。

ヴィトーの物語は九歳の少年が父と母と兄をドン・チッチオに殺されて天涯孤独になる場面から始まる。

彼はシチリアの掟によって彼を保護した人々によってアメリカに送り出され、エリス島に迎え入れられ、リトル・イタリーにささやかな生活の拠点を得て、結婚し、子どもが産まれ、クレメンザとテシオという仲間に恵まれ、やがてコルレオーネ・ファミリーを形成する。

なぜ、孤独な少年ヴィトーは家族をかたちづくることができたのか。それは彼が「シチリアの男の掟」に従って生きたからである。それ以外の行動規範をヴィトーは持たなかった。

野心的なシチリア人として描かれたヴィトー
野心的なシチリア人として描かれたヴィトー

ヴィトーは個人的な感情によって動かない。同胞を収奪の対象とするリトル・イタリーのボス、ドン・ファヌッチを撃ち殺す時も、シチリアに戻って家族の仇であるドン・チッチオの腹に復讐のナイフを突き立てる時も、ヴィトーはほとんど感情を表さない。

「掟が命じることをなす」ためにヴィトーには別に個人的な怒りや恨みの感情を動員する必要がないからである。

ドン・チッチオを殺すためのシチリアへの旅はヴィトーにとって、ドン・トマシーノとのオリーヴオイルのための商談の旅であり、故郷への家族旅行でもある。でも、地元のマフィアのボスを刺殺するための旅に家族を連れてゆくというのはよく考えるとずいぶんひどい話である。ヴィトーはそこで返り討ちにあって死ぬリスクもあったからである。

現に、ヴィトーに助太刀したドン・トマシーノはその時の銃撃戦で生涯にわたる重傷を負う。

すでにニューヨークで成功しているヴィトーにとって、シチリアに死にかけた老人を殺しにゆくことにはリスクだけがあって何のメリットもない旅である。だが、ヴィトーはこの復讐の旅を九歳の時からずっと心待ちにしていたのである。

その義務を果たさないと「シチリアの男」ではなくなると知っていたからである。だから、場合によっては、家族全員が死ぬ可能性もある旅に発つ時、ヴィトーはもちろん旅の趣旨を家族の誰にも打ち明けていなかったはずだし、少しの逡巡もなかっただろうと私は思う。

ヴィトーには「シチリアの男の掟」に違背してまで家族と安楽に生き延びるという選択肢は存在しなかったのである。