宮崎アニメにおける女性像の革新
現に、同時期の日本映画やヨーロッパ映画にマイケル・ダグラス映画に類するものを探すことは困難である。
「女性が殺される」映画として、私が思い出せるのは『不夜城』(1998)だけである。この映画では、金城武が自分を裏切った山本未来を撃ち殺すラストシーンに「日本映画らしからぬ違和感」があったので、よく覚えている。ただし、監督は香港の李志毅。観客からの支持もあまりなかった。
80─90年代に限って言えば、日本ではあからさまに女性嫌悪的な映画で興行的に成功したものは存在しない。誰でも知るとおり、この時期に日本映画で圧倒的なポピュラリティを獲得したのは、自然と文明を媒介する魅力的な少女たちを主人公に据えた宮崎駿の映画群である。
宮崎の映画には、ハリウッドが量産している種類の定型的な「嫌悪される女性」は一人も登場しない(かろうじて『ルパン三世 カリオストロの城』の峰不二子がいるが、彼女は最初から最後まで、どんな男にも権威にも服しないスタンドアローンの「不死身」の女賊であり、その点ではハリウッド映画的ではない。『風の谷のナウシカ』のクシャナも、『もののけ姫』のエボシ御前も、「悪女」系のキャラクターではあるが、彼女たちは男に屈服しないし、最後に死ぬわけでもない。これではアメリカ的基準からする「いい女」には入らない(※2))。
宮崎アニメに見られるような女性キャラクターにハリウッド映画はほとんど興味を示さない。ハリウッドのフィルムメーカーは、情緒が安定しており、ユーモアと知性があり、包容力豊かで、映画の最後まで「一度も男性主人公を怒鳴りつけない」女性登場人物というものをおそらくうまく想像することができないのだ。
ここにはある種の強い心理的禁圧が働いていると見る他ない。この彼我の隔たりは決して過小評価できるものではないだろう。
マイケル・ダグラス映画の「異常さ」に気づいたのち、私はアメリカ男性の「民族史的奇習」と思われるこの女性嫌悪に対して、かなり分析的な態度をとるようになった。そして、さまざまな女性嫌悪ストーリーをチェックしているうちに、それがどのような説話原型を好むのか、ということがだんだんと分かってきた。
もっとも頻繁に反復される話型は次のようなものである。
(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威(地位、富、情報、そして一番多いのが「父親の権力」)ゆえに、参入を許されている。
(3)男(たち)はこのテリトリー侵犯を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる(しばしばこの女性は複数の男性にとっての欲望の対象となり、その競合の中で男たちの団結が破壊される)。
(5)男(たち)は団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。
例えば、マイケル・ダグラスの『ディスクロージャー』はデミ・ムーアの好演もあって、「女の憎々しさ」が鮮やかに映像化された「女性嫌悪映画の傑作」であるが、これはみごとにこの話型を定型通りになぞっている。
※1 ジョーン・スミス、『男はみんな女が嫌い』、鈴木晶訳、筑摩書房、1991年、47─49頁
※2 ジュディス・フェッタリーによれば「唯一のいい女とは死んだ女である」というのがアメリカ的物語の窮極のメッセージである。『抵抗する読者──フェミニストが読むアメリカ文学』、鵜殿えりか他訳、ユニテ、1994年、116頁
文/内田樹