資本主義は今や「レガシー」にすぎない

 ところで先ほど、テクノクラシーとリバタリアニズムについて話していました。特にリバタリアニズム、この本の中では「企業リバタリアニズム」と呼ばれていますが、おそらく彼らは、「自分は資本主義的に合理的な振る舞いをしている」と言うと思うんです。

「経済学的にごく適切な振る舞いをしている」と。しかし、あなたは経済学者であるにもかかわらず、企業リバタリアニズムを批判して、デジタル民主主義、ひいてはPluralityを支持しています。それはどういった理由からでしょうか?

「プルラリティ」とは何か? 資本主義と民主主義の行き詰まり超える多元的未来への希望…オードリー・タンとE・グレン・ワイルが提唱する対立を創造に変えるテクノロジー_4

ワイル 経済学者が資本主義の制度を正当化しようとする試みは、非常に有名です。ミルトン・フリードマンを思い浮かべることもできますし、経済理論としてはケネス・アローやレオン・ワルラス、さらには厚生経済学の定理などを考えることもできます。

しかし非常に不可解なのは、人々が資本主義を正当化する際に口頭で挙げる理由――たとえば「資本主義は新しいアイデアを生み出し、大企業や産業を育て、イノベーションをもたらす」といった説明――が、理論的な正当化と矛盾しているという点です。

なぜなら、理論的な正当化のほうでは収穫逓減(しゅうかくていげん:事業規模が大きくなればなるほど、新しい投資の期待値と現実がかけ離れていくこと)を前提としているからです。

効率的な資本主義を実現するためには、効率的な価格が形成され、需要と供給が均衡する市場が必要であり、そのような市場では収穫逓減が前提とされます。

収穫逓減を前提とする市場では投資に見合った成果が期待できなくなるため、イノベーションに投資するインセンティブが生まれにくくなります。また大規模な組織の構築も排除されます。

それ(=収穫逓減を前提とした理論)は、実際には人々が資本主義の天才的な特徴として称賛しているあらゆるものを否定してしまうのです。つまり問題なのは、私たちが持っている資本主義の理論が、現実に資本主義に帰せられている利点と真っ向から矛盾しているということなのです。

したがって、「資本主義は経済的に合理的である」という考えは、私たちが現実に思い描いているような資本主義が存在しない世界でしか意味をなさないのです。これは、私たちが解決しなければならない根本的なパラドックスです

このパラドックスを解決するためには、今私たちが「資本主義」と呼んでいる制度が、実際には、収穫逓増やイノベーションといった現代の核心的な経済課題をうまく扱える制度からは、ほど遠いものだと認識しなければなりません。それらは単なる歴史的なレガシーに過ぎないのです。

過去に薪を燃やしてエネルギーを得ていたからといって、それがエネルギーを生み出す最適な方法だと誰も思っていないのと同じです。それは「エネルギーを生み出すべきではない」という意味ではなく、「私たちはもっと創造的になり、別のやり方を考えなければならない」ということです。

まさにそれが、私たちが資本主義をどう捉えているかということです。私たちは、資本主義の理論とその現実のあり方との間に矛盾があることから、前に進むための最善の方法は、資本主義の中で使われるテクノロジーに対して行うのと同じくらい、資本主義という制度そのものを変革することだと考えています。