共同体の「空洞化」

ここで強調しておきたいのは、「何もしないほうが得」という態度がまかり通る実態は、本来の共同体のあり方から大きく隔たっているということである。共同体の存続には「受容」と「自治」という2つの必要条件があり、それが車の両輪のように働いて共同体を維持してきた。

ところが組織のなかで不正やパワハラがあっても積極的に告発したり、声をあげたりしないのは、自分たちの「共同体」を健全に保とうという「自治」の役割を果たしていないことを意味する。

真の共同体なら、仲間がいじめられたりハラスメントを受けたりしているのを平然と傍観することなどあり得ない。

「1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた」誰も助けようとしなかった甲子園の開会式…日本人の多くが「何もしないほうが得」と考えている危険_3

まして「何もしないほうが得」だから行動しないと決め込むとなると、そこには一種の開き直りさえ感じられる。

一般に共同体型組織の負の側面として、社会的な利益や正義より共同体の存続やメンバーの利益を守るほうを優先しがちであることがあげられる。しかしメンバーが「何もしないほうが得」という態度を取るにいたっては、もはや「利益共同体」としての体もなしていないわけである。

それは一見すると陰徳や滅私を重んずる日本文化のもとではあり得ない態度のようだが、少し見方を変えれば、ある種の日本的な文化が、逆にそのような態度を取ることを可能にしているともいえるのではなかろうか。

西洋における「個」の倫理に対して、日本における「場」の倫理を強調する心理学者の故河合隼雄は、つぎのように述べる。

一度場の中にはいってしまうと、よほどのことがないかぎり、その場の中で救われるという利点ももっている。大学に入学すると、よほどの成績でないかぎり卒業できるし、その場の長となったものは場の成員の「面倒をみる」ことが暗黙のうちに義務づけられるのである。

(河合隼雄『母性社会日本の病理』講談社+α文庫、1997年、245頁)

この指摘は一種の性善説に立った寛容さであり、陰徳や滅私、礼節を重んずる日本文化のもと、まして狭い共同体のなかには利己的にふるまう者はいないと想定されていたのである。

だからこそ想定外、すなわち開き直って利己的にふるまう者が現れ、それが同調圧力に屈しないほどの勢力になったとき、組織としては手の打ちようがない。

いずれにしても、かつての共同体型組織が共同体の要素である「自治」的機能を失い、メンバーを「受容」する側面だけが残ったわけだ(図2-1)

そして共同体に受容されるためにメンバーは、いわばその見返りとして上からの要求を無批判に受け止めるようになった。「受容」と「自治」の関係が、「受容」と「忍従」に変わったのである。

「1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた」誰も助けようとしなかった甲子園の開会式…日本人の多くが「何もしないほうが得」と考えている危険_4
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注意すべき点は、「受容」と「自治」の均衡と、「受容」と「忍従」の均衡は、まったく意味が違うということである。前者は共同体を健全に保つための「公的」な均衡であるのに対し、後者は後に論じるように特殊な利益を得ようとする強者と、それに対して身を守る、あるいは取り入る弱者との「私的」な均衡である。

いずれにしても、共同体型組織のなかから健全な自治が消えたのである。

共同体における自治の消滅。それは共同体の「空洞化」である。

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