蔓延する「消極的利己主義」
一般に、人は過去の経験や想像にもとづいて損得を計算する。自ら行動することのプラス面としては獲得できる有形無形の報酬がある。そこには具体的な利益のほか、達成感や自己効力感(やればできるという自信)、周囲からの評価や承認、だれかのために役立てたという満足感など、心理的・社会的な報酬が含まれる。
いっぽう行動することのマイナス面としては、心理的負担感や周囲からの嫉妬・反発、注目されることの恥ずかしさ、想定外のリスクに対する恐れなどがある。
これらプラス面とマイナス面を天秤にかけ、マイナス面のほうが大きいと判断すれば行動を控える。「見て見ぬふり」をするのもその1つである。時間的な余裕があればそれを頭のなかで冷静に計算するが、余裕がない場合は直観的に判断する。
このように個人にとって「何もしない」という選択にはそれなりに合理性がある。しかし見方によれば、きわめて利己的な態度である。
なぜなら、それは「自分がしなくてもだれかがやってくれる」という甘え、あるいは「どうなってもしかたがない」という考え方につながるからである。
別の表現をすれば共同体の一員としての責任を果たさず、ただ共同体の一員としての恩恵にあずかろうとするフリーライド(ただ乗り)の姿勢だともいえる。だから私はそれを「消極的利己主義」と呼んでいる(前掲、拙著『何もしないほうが得な日本』)。
「消極的利己主義」は、だれもが同じ態度や行動を取ったら組織が成り立たないので、普遍性に欠ける行動規準だといえる。
にもかかわらず、それが個人にとって合理的だということは、有形無形のインセンティブが不足しているか、負のインセンティブが大きすぎるわけであり、社会システムに何らかの欠陥があることを意味している。
ただ、積極的すなわち作為による利己主義に比べて、不作為による利己主義は気づかれにくく、問題を見えにくくしている。
たとえていえば、公金を盗めば犯罪になるが、税金を滞納してもただちに犯罪になるわけではないのと似たようなものだ。