30代で豪遊の限りを尽くしてタモリも育てる
売れなければ貧苦にあえぎますが、その分、ヒットに恵まれれば大金をつかめるのが、漫画家の仕事です。
32歳のときには友人から頼まれてレーシングチームをつくったかと思えば、35歳のときにはアメリカに渡って豪遊。まさに湯水のごとく金を使いました。1200万円のクルーザーを買ったり、漫画雑誌を創刊するもまったく売れずに5000万円の赤字を出したりするなど、財布の紐は緩みっぱなしでした。
女癖の悪さも存分に発揮されて、ついに1973年、38歳のときに登茂子と離婚。自分から「別れてくれ」と妻に切り出しておいて、相手から離婚を迫られたと思い込み、別れて20年以上経ってから「あっ、オレが言ったの? うそ……」と言い出すという、オチまでつけています。
離婚してからは、目白のマンションに移り住んだ赤塚。飲み歩くことがますます増えるなか、ある「男」に夢中になりました。それはタモリです。
赤塚は、新宿歌舞伎町の酒場で宴会芸などを披露していた、福岡出身のタモリをスカウト。自分が住むマンションに居候させました。赤塚自身は職場で寝泊まりしながら、タモリの衣食住すべての面倒をみたのです。
そのときの心境をのちにこう語っています。
「僕が一番金を持っていたし、九州に帰したら日本のエンターテインメント界の損失になると思った」
どんな仕事でも、自分がある程度の結果を残すと「人を育てる」というフェーズへと移行していきます。赤塚もまたタモリを見出し、いわばパトロンのような存在となり、芸に集中する環境を与えていました。
赤塚の目に狂いはなく、タモリはフジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』の司会に抜擢されて、以後は大ブレイクしています。
赤塚が亡くなったとき、タモリが弔辞を読んで話題となりました。弔辞はこんな言葉で締めくくられました。
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
二人の関係性を思えば、決して大げさな表現ではないでしょう。