映画のようなスパイ同士の攻防戦

彼はこう説明する。

「私がMI6に協力したのは自由な文明国へのあこがれからです。東欧やソ連もそうした社会を作るべきだと考えたのです。ほかのスパイのように金銭的利得のためではありません」

過去のインタビューでも彼は、「全体主義体制への反逆だった」と語っている。

「ロシア人はそれぞれの持ち場で体制に逆らってきました。音楽家のショスタコービッチが書いた交響曲第5番は、スターリン批判に聞こえます。作家のソルジェニーツィンはペンで闘った。私は諜報の世界でクレムリンに逆らったんです」

ゴルジエフスキーはMI6の協力者である。ソ連がこの情報をつかんだのは1985年だった。

MI6はCIAと情報を共有する際、情報源を開示せず、内容だけを伝える。それが通常のやりとりだった。ゴルジエフスキーの情報は特別精度が高かった。レーガンは情報を受ける際、たびたびそのソースについてたずねた。

そのためCIAは慣例を破って情報源を探索する。その結果、出てきたのがKGB幹部のゴルジエフスキーだった。MI6が「火星」に送り込んだ者をCIAは特定したのだ。

ゴルジエフスキー氏
ゴルジエフスキー氏
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どうやって知り得たのだろうか。背景には米英ソによる映画さながらのスパイ合戦があった。KGBはCIAのソ連・東欧部に協力者を作っていた。米国人のオルドリッチ・エイムズ(CIA工作員でありながら、ソ連へ協力した人物)である。贅沢志向の彼は自らKGBに情報を売り込み、ソ連政府から巨額の金銭を受け取った。その額は日本円で数億円にもなると見られている。

エイムズが提供した情報の中には、西側諸国に情報を提供しているソ連人の名が10人以上あった。そのうちの1人がゴルジエフスキーだった。ソ連は割り出したCIA協力者のほとんどを逮捕している。最終的にその多くは死刑になった。例外がゴルジエフスキーである。エイムズは1994年に反逆罪で逮捕された。その後、終身刑を言い渡され、現在も服役中だ。

ゴルジエフスキーも危なかった。ロンドンからモスクワに呼び戻され、薬物を飲まされたうえ聴取されたが、二重スパイとは認めなかった。英国政府の特殊部隊が85年7月、彼を救い出し、車のトランクに隠してフィンランド国境から脱出させた。

その後、彼はノルウェーを経由してロンドンに到着する。ソ連がゴルジエフスキーに死刑判決を出したのは4カ月後である。

「私は80年代にKGBから亡命した者として唯一の生き残りだと思います。こうやって日本人記者と話すのは奇跡です」

二重スパイであることは妻にも打ち明けていなかった。曲折はあったものの家庭は崩壊した。ゴルジエフスキーはその後、米メディアに対し「オルドリッチ・エイムズはお金のために私を売った。一方、私はイデオロギーのために英国に協力したのだ」と強調している。

彼が建設を目撃したベルリンの壁は28年後の1989年、崩壊する。KGB情報員として東独ドレスデンに駐在していたのが、当時37歳のプーチンだった。東独市民はKGBを目の敵にしていた。

そのため、自由を手に入れた市民にプーチンは恐怖を感じた。そのトラウマ的記憶から、彼は信じるようになる。「市民を自由にしてはならず、秩序維持のためには力で抑え込む必要がある」と。

壁の建設を目撃して、自由の重要性を知ったゴルジエフスキーに対し、その崩壊から力による秩序維持を信じたプーチン。2人の思考は壁を隔てて、逆方向に向かっていた。

写真/shutterstock

プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
小倉孝保
プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
2024年12月17日発売
1,430円(税込)
新書判/352ページ
ISBN: 978-4-08-721341-6

夫アレクサンドル・リトビネンコは放射性物質によってプーチンに暗殺されたのか? 
その真相を明らかにするため、妻マリーナは立ち上がった。
この動きを妨害する英国、ロシアという大国の壁を乗り越え、主婦がプーチンに挑み勝利するまでの過程を、マリーナと親交がある著者が克明に描き出す。
同時に、ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチンの特殊な思考回路や性格、そのロシアとの外交に失敗した国際政治の舞台裏、さらに国家に戦いを挑んだ個人の姿と夫婦の愛を描く、構想12年の大作ノンフィクション!

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