社会は自由で民主的であるべきだとの信念
大使館員の仕事の一つは、式典(レセプション)への出席である。各国大使館が独立記念日や国王の誕生日などに開くパーティーに顔を出し、外交官同士で情報を交換する。秘密情報機関から大使館に派遣されている者は互いの素性を知っているケースが多い。
ゴルジエフスキーは英国大使館に勤務するMI6の職員を知っていた。他国の大使館でのレセプションで会い、連絡をとるようになる。
「かなり悩みました。家族を危険にさらすことになるしね。でも、自分に嘘はつけなかった。人類は民主的で寛容な社会を実現すべきだと信じていた。KGBやロシア軍は人の命を奪って民主化の動きを潰していた。ソ連は邪悪な独裁国家で、70年代には欧州を射程圏に入れた短距離核ミサイルを配備していた。危険な政権を潰す必要があった。勇気を持って自分の信念を貫きたかった。英国への協力は、ソ連の『奴隷制度』に押しつぶされないためでした」
ゴルジエフスキーはMI6の協力者となった。コードネームは「サンビーム」などである。1982年には政治部に異動した。KGBの中枢機関で、各国に配置されたエージェントを管理、指導する。エリートの集まる部署であり、ここでの勤務は彼の希望だった。
政治部では英国、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、フィンランドの情報を統括し、政府への報告書を作成した。西側にとって、大きな成果となった情報がある。
「ソ連政府は米国のレーガンが核攻撃を仕掛けると考え、対策を検討し始めた」
米国は1960年代から70年代にかけ、ベトナム戦争に足を取られて国力を低下させていた。ソ連との軍拡競争を回避するため、ニクソン、フォード、そしてカーター各政権は「デタント」と呼ばれる対ソ緊張緩和策をとり、核軍縮を進める。
しかし、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米国は再び強硬姿勢に転じ、81年に大統領に就任したレーガンはソ連を「悪の帝国」と呼び、敵対姿勢を鮮明にした。
ソ連はこれを単なる脅しと考えず、米国から核攻撃を受ける可能性は極めて高いと判断し、対策を始めた。その極秘情報をMI6に流したのがゴルジエフスキーだった。
レーガンは英国経由でこの情報を入手し、誤解を解くためのメッセージを発するようになる。これによって核戦争のリスクが低減された。
ソ連・ロシアや英国、米国には過去にも二重スパイがいた。その多くは、経済的利益から敵対組織に協力している。しかし、ゴルジエフスキーは違った。MI6に協力した理由はイデオロギーだった。
共産主義への反発、社会は自由で民主的であるべきだとの信念が彼を裏切らせた。物欲や個人的感情ではなかった。そうした例はほとんどなかった。