「仕事、辞めたい……」

 朝にトーストを焼きながら、昼に会社でキーボードを叩きながら、そして夜に子どもと湯船につかりながら。最近では無意識のうちに声に出していることすらあり、子どもや同僚に心配される始末だ。

 労働に向いていない――。17年前の春、新入社員研修を終えて満員電車に揺られる中で抱いた違和感は小さな種火となり、未だに私の中で燻り続けている。兼業作家として活動するようになってからは過熱する一方だ。専業作家になって執筆に全力を注ぎ込めば何かの間違いで単行本が300万部売れるかもしれない。会社員では到達不可能な、東京タワーが見えるタワマン高層階も夢じゃない。そうだ、辞表を叩きつけよう……。

 そんな甘い考えが頭をよぎる瞬間、手に取る本がある。

『狭小邸宅』新庄耕/著(集英社文庫)
『狭小邸宅』新庄耕/著(集英社文庫)
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 舞台は売上がすべてであり、売れない社員に人権はないという社風の住宅メーカー。有名大学を卒業して入社した主人公、松尾の日常を描く。

 この本の特徴といえば、何を置いても強烈なパワハラ描写において他ならない。

「おい、お前、今人生考えてたろ。何でこんなことしてんだろって思ってたろ、なぁ。何人生考えてんだよ。てめぇ、人生考えてる暇あったら客見つけてこいよ」

 罵声、暴力、蹂躙。無慈悲な台詞は読むたびに背筋をピンと伸ばしてくれる。

 本書の単行本刊行は2013年。働き方改革が導入される前の世界であり、コンプラ意識が浸透した令和の時代となっては古典としての趣すらある。

 しかし、私は鮮明に覚えている。新入社員の頃、毎晩ボロボロになるまで罵倒された日々を。家に帰ることすら許されず、深夜の居酒屋で延々と説教されたときの絶望を。そして改めて思い返す。何故そこまで辛い思いをして、辞めなかったのかを。

 作中、松尾は仕事を通じて何かにとりつかれるように豹変していく。その様子に、社会人になってから今日に至るまでの自分の歩みを重ねる。仕事とは、そして労働とは何か。松尾がそうであるように、私にとってもそれは、ただ単に金銭を得るための手段だけではないことは確かだ。

 時折、作中で上司が松尾を諭すシーンがある。

「お前は特別でも何でもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」

 適性がない会社員を続けたところで、先は見えている。それでも、私は辞めずにもがき続けている。結局のところ、私はどうしようもなく仕事が好きなのだ。それはきっと、小説を書くのと同じくらい。

『中間管理録トネガワ』協力:福本伸行、原作:橋本智広、三好智樹、萩原天晴/著(コミックDAYS)
『中間管理録トネガワ』協力:福本伸行、原作:橋本智広、三好智樹、萩原天晴/著(コミックDAYS)
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 仕事が苦手な私ではあるが、年功序列というカビの生えたような人事制度によって、甚だ不本意ながら中間管理職のようなことをさせられている。自分のことだけでもキャパオーバーなのに、なんで後輩の面倒を見つつ上司の顔色を伺わないといけないのだ――。

 そんな苦悩する私にとってのバイブルが『中間管理録トネガワ』だ。『賭博黙示録カイジ』シリーズでは強敵としてカイジに立ちふさがった利根川がオーナー企業の中間管理職として四苦八苦する様子をコミカルに描いている。

 シリアスなカイジ本編とは異なり、終始ふざけているギャグ漫画なのだが、上司と部下の板挟みになる場面など妙なリアリティがあり、中毒性がある。中間管理職に必要なのは上司への根回しでも部下への指導でもなく、理不尽を笑い飛ばす心持ちなのかもしれない。

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